十六
修嗣は、山を登った。
もう、前のように息が切れることはなかった。
ただ、吐く息は白かった。冬の寒さが容赦なく体力を奪う。部屋から飛び出したまま彼は寝間着だった。足だけは、納屋で見つけた長靴を履いている。
体を奮い立たせ、前へ進むことだけを考えた。草を踏みしめ、枝の隙間を縫うように登っていく。空は光を失い、ただ、ぶ厚い雲に覆われている。
頭は割れるように痛かった。鼓膜の内側で、壁を叩く音がずっと続いている。ひねった足をかばうために、鍬を杖代わりにした。吐いた空気を取り戻すように、乱暴な呼吸を繰り返す。
ようやく、建物が見えてきたとき、目の前に白いものがちらついた。雪だ。見上げると、無数の白い線が降ってきた。刺すような寒さに震え、地面は白く霞んでいく。草花は綿のような雪に覆われ、形だけが残る。
玄関ホールを抜け、食堂の方は見向きもせず、這うように階段を駆け上った。
「兄さん出てこいよ! 聞こえてるんだろ?」
修嗣は、手すりに巻きつく夏蔦を鍬で引き剥がし、階下に投げ捨てた。
そうして、あの扉の前に辿り着くと、腹の底から怒鳴った。
「出てこい!」
犬の死骸は、既に原型を失った黒い塊になっている。骨と皮と剥がれた床の塗装の判別が付かない。臭いはなかった。
廊下はシンと静まり、彼の怒声だけが響き渡る。
「出てこいよ! クソッ!」
修嗣は、持っていた鍬を扉に叩き付けた。鍬の刃がキンと音を鳴らして跳ね返る。振り上げた勢いで、反対側の扉にぶつかった。黒い塊を踏みつける。おかしな感触がした。背中を強かに打ち、顔を歪める。
「そのままそこに居座るつもりか」
彼は、何度も何度も、鍬を振りかざした。しかし、扉はびくともしない。まるで鉄のように硬く、表面に付いた埃が落ちるだけだった。
「いい加減にしろ! 家族のお荷物だ!」
卑怯者、と修嗣は叫んだ。老人のように声がかすれていた。
「お前が母さんを殺したんだ」
その時、妙な既視感がよぎった。ほんの一瞬。前にも、同じ事を言ったような。いつだろう。確か、あれは……、思い出そうとすると、彼の頭は軋んだ。片目をつむって、掻きむしる。息ができなかった。
ドンドンドンドン。
ドンドンドン。
ドンドン。
「お前が殺したんだ」
彼は、体勢を整えると階段へ戻り、迷わず上っていった。
やがて、四階へ辿り着くと、意味不明な叫び声を上げながら、天井の塗装が剥がれ落ちた廊下を走り出す。時々、気が向くと、鍬で窓を叩き割った。窓は跳ね返って抵抗するものもあったが、そういった場合は、二度、三度と衝撃を加えてかち割った。ガラスの破片が飛び散る様がキラキラとして綺麗だった。頬に破片が当たり、微かに血が出た。ひねった方の足は、不思議と痛みが引いている。
両開きの扉を開けて、修嗣はベランダへ飛び出した。
頭上から、とめどなく雪が降ってくる。
風が吹くたびに、強烈な寒さが身を凍らせる。
修嗣は、ベランダを横断し、斜めにぶら下がった柵の前に立つ。
「兄さん!」
山の中へ、叫び声がこだまする。
眼下には、暗い中庭が口を広げていた。
野放図に伸びた枝木は、蔦と葉が複雑に絡み合い、巨大な緑色の塊になっている。そこへ、雪が降り込む。見上げた空は、灰を敷き詰めたような色をしており、太陽のある場所だけが、真っ黒に歪んで見える。
「そこにいるのは分かっているんだ!」
ドンドンドンドン。
ドンドンドン。
ドンドン。
ドン。




