十四
「母さんに、お前が出てったって、伝えたよ」
兄が、片方の口の端を上げてにやにやしているときは、大抵いつも、嫌なことが降りかかると六歳の修嗣は理解していた。
兄は中学に上がったころからまるで人が変わったように意地が悪くなり、何かにつけて弟を罠にはめるのを楽しむようになった。
修嗣の部屋へ犬を放ったことがある。あの、山で見つけた犬だ。本棚が荒らされ、布団には糞が撒かれていた。
また、ある時には、風呂場の明かりを消して薪を焚いた。湯の温度は一気に上昇し、暗闇の中で修嗣は転んでタイルに頭を打ち付けた。額を三針縫った。同じ薪で鞄を燃やされた。池に落とされたこともある。
修嗣はひたすら兄に怯えていた。
ただ一つ救いだったのは、母の存在だ。
兄に泣かされるたびに、修嗣は母に告げ口をした。彼女だけは、兄を注意してくれた。父は、そんな修嗣を見るたびに情けないと罵った。彼は兄を買っていた。何故なら、圧倒的に成績が優秀で、委員などにも積極的に加わっていた兄は、父の前ではとても良い子を演じていた。また、母に注意されると、悲しそうな顔で反省の言葉を口にした。その後には、より一層酷い仕打ちが修嗣を待っていた。
「なんでそんなこと……」
修嗣は、納屋の内側から声を上げた。ぶ厚い扉は、押しても引いてもビクともしない。
今日は、母の誕生日だ。修嗣は、小さなプレゼントを用意していた。目が赤く、体が半透明な魚の形をしたブローチ。町の露店で買ったものだった。小学校から帰ってきた修嗣は、真っ先に自分の部屋へ向かった。しかし、机を開けても、タンスを開けてもブローチは見当たらなかった。どこかへ落としたのだろうかと焦る。確かに机に置いたはずなのに。汗だくになりながら、床を這いつくばっていると、隣の部屋から兄がやってきた。
修嗣は、兄の表情を見て、すべてを悟った。
「兄さん、ブローチどこやったの……」
「何の話だよ」兄はせせら笑う。
「どこへやったの?」
「少しは自分の頭で考えろ」
修嗣は、歯を食いしばって、兄の顔を睨み付けた。
「あれは、母さんに渡すつもりだったんだよ」
「へえ」
「母さんのために買ったのに……」
奇妙に歪んだ顔で兄は修嗣を観察していた。鼻の隅を痙攣させて、片方の口の端だけを持ち上げる。見開かれていた目は、白目が赤く充血していた。
「納屋でも見てきたらどうだ」
兄は床へ何かを放り投げる。それは、小さな鍵だった。その形に修嗣は見覚えがあった。
「納屋?」修嗣は、ゾッとする。
「あそこは物を保管する場所だ」
「本当に、納屋に置いてきたの?」
「さあね」
「兄さん、いい加減に……」
「俺は、お前みたいに嘘を吐かないよ」
彼の言葉は確かだった。兄は、決して嘘は吐かない。しかし、その事実は弟にとっては恐怖でしかなかった。修嗣が池に落ちたときも、兄の言った言葉は、「ここに金色の鯉がいる」だった。ただ、山の奥の池へ弟を連れて行き、「金色の鯉がいる。よく見ろ」と言っただけだ。大量の雨が、地面を濡らした翌日に。
修嗣は、急いで納屋へ走る。すると、扉にいつもかけられているはずの南京錠がない。ざわつく動悸を抑えて、子供には重い扉を押し開ける。中へ入ると、すえた臭いが充満していた。穀物と、糞の臭いが混じっている。修嗣は、以前、母と一緒に納屋へ入ったことがあった。
一階には、農具が乱雑に置かれ、二階には、収穫された米や麦が保管されていた。
この中から、あの小さな魚を見付け出すと考えると、吐き気に近いものを感じた。だだっ広い空間で、自分がとても小さく感じられた。
しかし、目当ての物は、あっけなく見つかった。
魚のブローチは、修嗣の靴の裏で、粉々になっていた。
彼が泣き出すのと、背後で扉が閉じるのは、ほとんど同時だった。
「修嗣、ブローチ見つかったか?」
閉じた扉の向こうで、兄が言った。
「兄さん、やめてよ……」
修嗣は、ぶ厚い扉を両手で殴った。腕の骨が痛む。漆喰の扉は、叩くたびに、白い粉が飛んだ。
「何を?」
兄の笑い声が、扉を通して怪物のように聞こえた。
修嗣は泣きながら、扉を叩き続けた。
頭が割れるように痛い。
「そうだ」修嗣は、あることを思いついて納屋の奥へ向かった。壁に立てかけられた農具。初めは、刃先が鋭い鍬を持とうとしたが、あまりにも重くて扱えなかった。そのため、小さな刃鎌を掴んで、扉を掻いた。しかし、そんなものでは扉を開けることはできなかった。それにもう、あの人は扉の前にはいないようだった。
何時間、そこにいただろう。
修嗣は、とうとう叫ぶ気力を失った。
両方の手の側面が、真っ赤に腫れている。
ようやく、外へ出されたのは、翌朝の五時だった。
手伝いの人間が、玄関に置きっ放しになった鍵を不審に思い、納屋へ様子を見に来たのだ。
修嗣だけが父に怒鳴られた。
「どうしてお前はいつもそうなのか」と。
兄は部屋に籠もって出てこなかった。
「母が崖から落ちた」と知らされたのは、その三日後だった。




