十二
結局、壁の音は朝になるまで止まなかった。修嗣は、布団と毛布を被ってずっと膝を抱えていた。音は周期的で、時々休む。そうして、再開すると、一層激しい音が繰り返された。
少しだけ夢を見た。幼い頃の夢だった。
額に汗が滲み、口は乾いていた。
学校へ向かう途中、また沙也加がついてくるかとも思ったが、家を出てから一度も会わなかった。
彼は、数学の授業を抜け出して曇り空の下を走る。材木置き場へ向かい、山を登り、そうして、またあの場所へ来た。いつもより寒かった。頭上を覆う雲が鈍い色をしていた。
「来たね」
その声を聞くと、彼は安心した。
少年は、別れたときと同じ姿勢で、玄関ホールの柱にもたれかかっている。相変わらず、紺のブレザーだった。
「学校に行ってないの?」修嗣は、腕時計を見る。始業式でもなければ、こんな日中に学校が終わることはない。
「学校なんて、時々で十分さ」イリヤは答えた。「君もそう思うだろう」
彼らは歩き出す。自然と足は食堂へ向かった。
壁に並んだ黒い額縁で、黄色い葉が揺れていた。
「家族との仲? 良い方だよ、多分ね」
修嗣の質問に少年は快活に答えた。
「父親は医者、母も看護師だからほとんど家にいない。仲が悪くなりようがないんだよ。会話しないから」
湿気を含んだ生温い風が吹き込んでくる。
「凄い家だね。君も、将来は医者になるの」修嗣は、地面に膝を付いた。
「医者といっても、体を治す方じゃないからね。僕には無理だよ。気が滅入る」
「ふうん。でも、期待はされるだろう」
「さあね、どうだっていいさ。もともと家を出るつもりだから」
「家を出る?」
「そうだよ。別に、珍しくもないだろう」
「町から離れるの?」
「離れたいね、こんな所にいたら頭がおかしくなる」
「外に行っても、おかしい人間はおかしいさ」
修嗣の言葉に、少年は声を上げて笑った。
二人が目指す高校は同じだった。もっとも、この地方には、公立の高校が一つしかなく、学力に問題がなければ大方の生徒がそこへ通う。極端に成績が悪い場合、県外へ行くしかなかった。
「君の家の方が、よっぽど凄いと思うよ」少年は、しばらく宙を見つめると、そう言った。「犬神家みたいだ」
ポツポツと細かい音が鳴り、ほんの数秒で、破裂するような音に変わった。外を見ると、白い錦糸が木々を霞ませていた。雨が降っていた。
二人は並んで、白んでいく森の景色を見ていた。葉はお辞儀するように、不規則に揺れ動き、時々、跳ね返った雫がガラスのない窓から入ってきた。
「もう嫌だ、あんな家……、僕も出られたらいいのに……」
「出たければ、出ればいい」
修嗣は、少年の顔を見る。二重の大きな瞳は、修嗣をつぶさに観察していた。森に潜む鳥を探すときと同じ目だった。彼は、右手で細い顎を支えている。
「逃げたければ逃げればいい」
少年の言葉は無責任に響く。
「そろそろ、行こうか」
「どこへ」と口にしてから、修嗣は検討を付ける。また、あの扉に違いない。
微笑みに従って、階段を上り、扉の前に立った。湿気のせいか、足下から強い臭いがした。
「なんでここに執着するんだ」修嗣は尋ねる。
「さあね」少年は肩をすくめる。
「何度やっても同じだろ」
「いいや、これは開くよ」彼は、すぐに答えた。「大丈夫」
「どうやって開く? 壊すつもりなら、僕は賛成しない。夜中に忍び込んで壁に落書きするような馬鹿と同じだ」修嗣は苛立ちを露わにして言った。
「壊したりしない。ただ、君さえ頑張れば、これは開くんだよ」少年は口元に手を当ててくすくすと笑った。
「僕はそんな力はないし、鍵がかかっているのにどうやって開けるんだ。わけが分からない」
「忘れてるんだね。仕方ないよ。こういうのは、時間がかかるから……」
「何を?」修嗣は、首を捻って少年を睨み付けた。「何が入っている?」
少年の笑い声が毬のように弾む。
「大丈夫だよ、修嗣」
一体、何が大丈夫なのか。
名前を呼ばれると、顎の下がむずがゆくなった。
外の雨は、激しさを増している。
「大丈夫」




