十一
密集した木々から、祭囃子がかすかに聞こえる。ケーブルに釣り下げられた電飾が光を撒き散らし、客寄せの声に混じって子供の騒ぐ声が聞こえる。
修嗣は、水底に留まる泡に見とれていた。
ポンプの運動に従って、膨れ上がる虹色の泡。
赤やオレンジ色の金魚が体を揺らして、長方形の箱の中を泳いでいる。
「お前は、眺めてるだけだな」
修嗣は、半袖のシャツを着ていたので肌寒かった。
隣に兄が座っている。兄の隆嗣は、長袖を着ている。それは、寒さからではない。年中同じだった。夏のどんなに暑い日でも、兄は必ず長袖を着ていた。理由は分からない。母の手によって、彼らの服には念入りにアイロンがかけられていた。
「金魚は、生まれたときはみんな黒なんだ」と兄が言った。
修嗣は、金魚を見ていたわけではないので、別段、その話に興味を持てなかった。左手にポイを握って、右手で椀を抱えている。ポイに張られた和紙は、乾いたままだ。
「ふうん」と答える。
「育っていくにつれて、色が変わっていくんだ」
兄は、口の端を上げる。左手の椀に、金魚が三匹入っていた。
「じゃあ、この黒いのはなんなの」
「黒いのは、金色になることがある」
「金色なんているの」
修嗣は、水面を覗き込む。自分の顔が、ゆらゆらと揺れた。
「おい、取る気がないなら行くぞ」
兄が店主に椀を差し出すと、三匹の金魚は透明な袋に入れられた。兄は黙って歩き出す。置いて行かれるのを恐れて、修嗣は後を追った。
敷石を踏みしめ、小さな修嗣は何度もつまづきそうになった。台の上にのったかき氷機から、透明な雫が飛び散るのを見た。店主の毛むくじゃらの手が氷を成形する。足下に生えた白詰草が汚れていた。林檎飴の香りと、ソースの焼ける匂いが混ざり合って鼻を突いた。
兄は、酷い猫背だった。いつも首を屈めたようにして歩き、両手はズボンのポケットに入れている。修嗣は、人混みに漂う曲がった背中を追う。母に買ってもらったばかりの運動靴は、つま先が当たって痛い。喘息持ちだったので、すぐに息が切れた。
やがて、屋台が並ぶ敷地からいくらか離れると、祭り囃子は聞こえなくなった。空には無数の星がある。乱雑に浮かぶ光の一つ一つに名前が付いていることを、兄から聞いた。牡牛座の側で輝く昴。ペガスス座の四つの星を基準にすれば見付けやすい。
まるで弟のことなど忘れたように、兄は一度も振り返らなかった。坂を下ると、森の切れ間に沿って、階段を登る。修嗣は、何度も人ごみに飲まれそうになりながら、走り続けた。
「にいさん」
決して立派とは言えないような質素な鳥居をくぐる。階段の隅には、老人や、男女が座り込んでいた。酒の臭いを漂わせている。
「にいさん」
修嗣は汗をかいていた。一体、兄はどこへ行こうとしているのだろう。 神社でお参りでもするつもりだろうか。しかし、その神社もあっという間に通り過ぎた。境内を回り込んで、ほとんど明かりのない暗がりへ向かう。月明かりだけが頼りだった。
犬がいた。
首にビニール紐を巻いている。紐は、側の木にくくりつけられていた。
「どうしたの、それ……」
修嗣は、ほとんど倒れそうになりながら、兄に尋ねた。
「山で見つけた」
兄は犬の側に座る。すると、右手に握っていた透明な袋を、なにげなく地面に置いた。水が溢れる。金魚の口が開閉する。土が黒く染みていく。
犬は、遠目にも汚れていることが分かった。目が片方潰れている。
修嗣は、犬の口に入っていく金魚を黙って見ていた。
すっかり三匹の金魚を平らげた犬は、兄の足に絡み付いて吠えた。涎を垂れ流す頭を、兄は容赦なく蹴り飛ばした。悲鳴のような声を出して、犬は怯えて縮こまる。
修嗣は、急に怖くなった。
「修嗣、いいところに連れて行ってやるよ」
「いいところ?」
兄は、犬の首に付いた紐を無理矢理引っ張り、山を歩き出す。暗くてほとんど何も見えないまるで獣道だ。
「帰らないと、お父さんに怒られるよ」
「あいつらなんか、放っておけ」
兄は、暴れる犬をほとんど引きずるようにしている。
「でも、怒られるのやだよ。お父さん怖いよ」
修嗣が声を上げると、突然、兄が振り返った。心の底から驚いて、その場に腰を付いてしまう。兄は近付いて、弟の顔を斜めに覗き込む。犬は、右手で押さえつけられていた。
「何が怖いって?」
唸るように低い声を聞いて、修嗣は泣きそうになった。もしかして、兄を怒らせてしまったのかもしれない。理由は分からない。焦りで汗が噴き出した。
「お前、何が怖いって?」
兄の目は、砂のように干涸らびていた。視線を丸ごと吸い込んでしまう。
押さえ込まれた犬が、歯を剥き出しにして土を食っている。
「怖くないよ」と修嗣は言った。
それは、生まれて初めて吐いた嘘だった。
「全然、怖くない」
首を振るう弟を見下げて、兄は静かに立ち上がった。
犬を引き連れ、再び坂を登り始める。
「あいつら」という言葉を頭の中で繰り返す。




