9.物は試し
こんなに居心地が良いのに……あと一ヶ月と少し。出て行く時、きっと涙が出てしまう。
今もこうして、私の暇に付き合ってくれる若いメイドの子たちと刺繍を刺して楽しんでいるなんて……来た時には考えられなかった。皆、腕の良い者ばかりで感心させられる今日この頃。
「リヴィア様の図柄は、とても珍しいですね」
「これは、母の故郷でよく使われていたの。単純な柄だけど、とても意味が深いのよ」
「どんな意味があるんですか?」
「……家族の幸せ。小さい頃から母がよく刺してくれたから、思い入れのある柄なのよね。今の私には……あまり向いてないかもしれないけど」
様々な模様が一つの球体に収まる、"一つになる"と願いの込められた図柄……そう思うと、乾いた笑いが溢れた。
「そ、そんな事ありません! 私たちのような使用人とも分け隔てなく接して下さるリヴィア様が、その幸せを手に出来ないはずありません」
「ありがとう。そう言ってもらえるだけで、ここに来た価値があるわ」
「リヴィア様……」
せっかくの雰囲気を壊したくなくて、少しだけ大袈裟に笑ってみせた。最近の流行について話したり、これから庭園にどんな花が咲くのか聞いたり。そんな愛しい時間があるからこそ、私にとって何が大事なのかを見失わずに済む。
「……思わず、刺繍を張り切り過ぎてしまったわね」
***
「……家族の、幸せ?」
別に……盗み聞きしてた訳ではなくて。たまたま……本当に通り掛かりに聞こえた彼女の声に、思わず足を止めてしまった。その声色だけで、どんな表情をしてるのか想像出来てしまうくらい、か弱く聞こえた。
彼女を庇う使用人たちの声が、棘のように突き刺さる。
「ここに来た価値……か。三ヶ月経った時、彼女はどんな顔で出て行くんだろう……」
どこに用事があったかも忘れて自室へ戻った。日に日に机の上に増えていく父さんからの資料を眺めた。ルナに見せたら、きっと「大変そうだね」なんて笑う。彼女は……彼女にこの資料を見せたら一体何て言うんだろう。
「物は試しか」
いっそ、今から彼女の元に資料を持って行って実験してみるか? 笑って「大変そう」だと言えば、その程度の人間だと分かって余計な期待をしないで済む。
「フェルナンド」
「はい、ジェーン様」
「……もう一度出てくる」
「用事を思い出されたんですか?」
「……」
何冊か重ねた資料を片手に、もう一度部屋を出た。先程まで賑わっていたテラスには、片付けをする使用人の姿しかない。
「ジェーン様、何か御用ですか?」
「……リ……リヴィ——」
「リヴィア様でしたら、今さっきお部屋へ戻って行かれたばかりですよ」
「あっ……ありがとう」
「もしかして、リヴィア様を訪ねられますか?」
「な、何故?」
「実は、ここで刺繍を刺していたんですが、リヴィア様が一枚忘れて行かれまして。後でお届けしようと思ってたんです。もし訪ねられるなら、お願い出来ませんか?」
折り畳まれたハンカチに、手を伸ばした。どうせ資料を届けるのだから、ついでだ。一緒に渡せば何の問題もない。
「分かった。渡しておこう」
「ありがとうございます」
資料の上に乗せ、彼女の部屋へと向かった。僕とは真逆の一番奥。僕の部屋は、温室が見える位置。彼女の部屋は……その逆。少しでもルナに近付いて欲しくなくて当てがった部屋に、まさか自分から行く日が来るとは思いもしなかった。
後少しで部屋に着くというところで、資料からハンカチが滑り落ちた。広がり落ちたハンカチを、小さな溜め息と共に拾い上げた時、そこに描かれた刺繍に目を奪われた。
先日、騎士団本部でダイナーから言われた言葉が脳裏を過ぎる——
「そう言えば。リヴィア・セレジェイラ嬢って昔、婚約者がいたんだよ。母方の出身地で、許婚だったはずだ」
「……許婚」
「いつ婚約が解消されたかは知らない。ただ、数年前にお前が先頭に立って勝利した旧アルバリヤ公国の者だったはず」
拾い上げた刺繍が、旧アルバリヤ公国に伝わる図柄だと知っているのは……戦うために調べた本に載っていたから。それが家族の象徴であり、幸せを願う刺繍という事も。
彼女が何を思ってこの刺繍を刺したのか……分かってしまった気がする。本来なら幸せになれる道があったんだ。それを願っていたのに、今、こうして僕の側にいる。望まない婚約を結び、しかも恋人がいると知った彼女が、僕を思ってこの刺繍を刺すはずがない——
だけど……、僕が一月後に「出ていけ」と婚約破棄を伝えたら、彼女は二度目の婚約破棄をすることになる。何の罪もない彼女が、僕のせいで更に傷付くのか……。
「……ジェーン様?」
ハッと顔を上げた。目の前には、部屋から出て来た彼女が複雑な表情でこちらを見ている。
「それ……」
「あっ、これ……テラスに、忘れてたと……」
「……わざわざ、ありがとうございます」
こんなに彼女に近付いたのは、突き放した初日以来だ。当たり前だが、畑で見せたような笑顔は微塵もない。
「……まだ、何か?」
「え?」
「ハンカチは受け取りましたし……お戻りにならないので……」
「……君は——」
唾と一緒に、元婚約者の話を飲み込んだ。持って来た資料を握り締め、何事もなかったかのように「刺繍が……好きなのか?」と、当たり障りない会話が口を突いて出た。
「えぇ……」
「そうか。では」
踵を返した所で背後にいたフェルナンドに気付き、手汗が滲んだ資料を手渡した僕は、何も言わずただただ階段を降りた。




