8.忘れ物のせいで
赤くなった手を摩っていたせいか、それともフェルナンドが部屋に入っていたせいか、新しい服を持って来たアンが「何かありましたね?」と言う。
慌てて棘が刺さったことを説明する。
「——フェルナンドのおかげで、もう痛くないわ」
「そうでしたか。私はてっきり、お二人ともお顔の色が赤かったので何かハプニングでもあったのかと、ふふっ」
軽装のワンピースを整えながら、アンが笑った。
「ハ、ハプニングなんて何も……ないわよ。私はジェーン様の婚約者よ? 何かあったら大事だわ」
「ですが、当の婚約者様には恋人がいて、すでに大事を招いているではありませんか」
「だからって……私が大事を招いて良い理由には、ならないわ」
異性に触れられる機会のない私が、ただ驚いて鼓動を早めただけ。冷静に考えれば簡単なこと。
***
さっきのあの笑顔は……何だ?
騎士団の遠征資料を忘れて一時的に帰って来たが、随分と邸の中が静かだった。温室に顔を出そうかとも思ったが、庭園の方から賑やかな声が聞こえて足を向けた。
『リヴィア様、こちらは土に埋まってます』
『よしっ。根元を持って……んっ、ん〜〜〜……わぁ!』
『大丈夫ですか!?』
彼女が尻餅をついてしまった。思わず身体が前のめりに反応したが、次の瞬間——
『……あはははっ』
……あんな笑顔を見たのは、初めてだった。目を細め、空に向かって口を開けて笑う彼女を見て、ちくりと心が痛んだ気がした。ここに来た当初から突き放したのは自分なのに、知らぬ間にあんなに使用人たちと心を通わせ、心からの笑顔を見せる……。
無性に父さんの言葉が蘇った。
『家族を……延いては、この侯爵家を守るということは、並大抵の努力ではダメなのだ。繁栄を維持し続け、財力を保ち、品位を落としてはならない。今のお前に、その全てが出来るのか?』
服が汚れても、顔に土が付いても、嫌な顔をせずに思い切り笑う彼女から目が離せない。
「……あら? ジェーン様、こんな所でどうされたんですか?」
背後から近付く、メイド長にすら気付けないなんて。
「あ、いや……忘れた資料を取りに戻ったんだ」
「まぁそれは大変。すぐにお持ちしますね」
「自分で行くから構わない。ところで、あそこは……」
窓の向こうに視線を移した。畑の存在を知っていても、それだけだ。
「ずっとお邸でじっとしていても、退屈ですからね。フェルナンド様が気を利かせてお誘いしたんですよ。見学かと思ったら、自分でやりたいとお着替えまでされて。ふふっ、逞しいですよね」
「……そうか、フェルナンドが」
彼女の側で、心配そうな顔をして立つフェルナンドが、一瞬こちらに首を動かした。思わず、窓枠から外れて隠れてしまった僕に、メイド長が小さく微笑んで「知る事から始められたら良いと思いますよ」と言う。
「別に、そんなつもりは無い」
だって、僕にはルナがいる。ルナさえいてくれれば、それで——
『負目を感じる彼女は永遠に自分の身分のせいでお前に迷惑を掛けていると重荷を追うのだ』
再び、窓の端から彼女を見て、小さく息を吐いて踵を返した。何も言わずに頭を下げたメイド長が何を思うか、だいたい分かってしまう……分かってしまうから現実から逃げたくなる。
忘れた資料を手に騎士団本部へ戻って来た。隊員が訓練に勤しむ姿を上階から見下ろし、小さな溜め息を溢した。
「どうしたんっすか? 溜め息なんて珍しい」
「……なんでお前がここにいるんだよ」
第三騎士団に所属する僕とは異なり、第五騎士団の団長を務めるダイナーが封筒を片手にやってきた。騎士学校の同期で、僕に狙いなく接する一人であり、盟友だ。
「資料を取りに行っただけなのに、随分帰って来ないって心配してたんだよ。で、帰って来たら溜め息つくなんて、何かありましたーって言ってるようなもんだろ。ルナちゃんか?」
「……」
「なるほど、婚約者の方か」
ズケズケと土足で人の心に入り込むダイナーだが、相談すれば至極全うな答えが返ってくるのだから、嫌な顔は出来ない。
「……何もしなくて良いと伝えていたのに、使用人と畑仕事をして笑ってたんだ」
「それは凄いな」
「服が汚れても顔が汚れても笑っていられる彼女を見て、家を守れと口にした父の言葉を思い出した」
「ほぉ……。で、婚約者の笑顔に心を射止められたと」
「ち、違う! そんなんではなく——」
「なら、なんて思ったんだよ。あぁ、畑仕事して笑ってるなーで済んだのか?」
「……っ、」
「ルナちゃんが大事だと思って頑張って来たのに、頑張らなくたって適任者がいて、侯爵家全体から歓迎されて未来が保証されるなら……そりぁ楽だよな」
「だが、ルナには僕が必要だ」
「確かに。彼女の身体を蝕む薬の副作用は尋常じゃない。抱かれなきゃ生きていけないなんて、天国か地獄か判断出来ねーよ」
僕はルナが好きだ。だから、帰って真っ直ぐ温室に行くし、求められればいつだって……。
「じゃ、愛人としてルナちゃんを囲って、婚約者とは普通に結婚。子供が産まれれば安泰。一丁上がりだな」
「簡単に言うな。どっちにも失礼——」
「今更かよ。婚約者がいる場で、ルナちゃん抱いてる時点で、すでにお前は失礼者だっつーの」
「……分かってる」
ルナが他の男に抱かれる未来なんて考えられない。それならやはり、ルナを最高に育てるしかない。
手をポンと叩き、何かを思い出したように僕の肩を叩いた。
「そう言えば。リヴィア・セレジェイラ嬢って、昔——」




