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ナーロッパが西洋ファンタジーらしくない理由~韓国漫画だよね、その設定~  作者: Ash


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爵位、身分、財産の相続

AIさんに初めから投げておきます。


近世以前のヨーロッパ、特に「ドイツ圏(神聖ローマ帝国)」や「ポーランド」などには、父親の爵位を子供たち全員がそのまま引き継ぐ国(地域)が明確に存在しました。

イギリスのように「長男だけが爵位を継ぎ、次男以下は平民」という国は、ヨーロッパ全体で見るとむしろ例外的な部類に入ります。

大陸ヨーロッパで広く見られた「子供全員が爵位を継ぐシステム」について、代表的な国やその仕組みを解説します。


1. 子供全員が同じ爵位を名乗れた主な国・地域

ドイツ圏(神聖ローマ帝国の後継国家など)

ドイツやオーストリアの貴族制度(大陸型貴族)では、「爵位は長男だけでなく、すべての嫡出子(男児も女児も)に均等に受け継がれる」のが原則でした。

* 具体例:父親が「伯爵(Count)」であれば、長男も次男も三男も全員が生まれた時から「伯爵」となります。また、娘たちも結婚するまでは「伯爵令嬢(Countess)」という正式な爵位を持ちます。


ドイツ(旧・神聖ローマ帝国圏)で、子供たちの間で財産が「均等に分割」されるようになった時期は、「貴族階級の財産」と「平民(農民や市民)の財産」で、歴史的なじみが大きく異なります。

貴族の爵位は中世から子供全員に均等に引き継がれましたが、「全ての財産(不動産や領地)」が法律によって男女・長幼を問わず完全に均等相続とされるようになったのは、1900年のドイツ民法典(BGB)の制定(1.2.4)からです。

ドイツにおける均等分割の歴史を、2つの側面に分けて解説します。


1. 貴族の「爵位」:中世からずっと均等

ドイツ圏(神聖ローマ帝国)では、中世・近世の時代から、父親の持つ「爵位(タイトル)」は子供全員(男子も女子も)が均等に引き継ぐ慣習がありました。父親が伯爵であれば、長男も次男も三男も、みんな生まれた時から自動的に伯爵になります。


2. 「財産・領地」:1900年のドイツ民法典で完全統一

一方で、家がバラバラになるのを防ぐため、貴族の「領地や主要な財産」については、長男がまとめて引き継ぐ「単独相続(限嗣相続)」を行う家系が多くありました。

これが法的に「子供全員に均等に分ける権利がある」と完全に一本化されたのは、1900年1月1日です。

* ドイツ民法典(BGB)の誕生(1900年)ドイツが1つの国家として統一された後、それまで地域ごとにバラバラだった法律をまとめた「ドイツ民法典」が施行されました。この民法典の第1924条(法定相続人の規定)によって、「第1順位の相続人である子供たちは、男女の区別なく、全員が均等な割合で遺産を分割相続する」という近代的システムが、国家全体の絶対的な基本ルールとして確立されました。


3. 歴史人口学から見る「普通のドイツ人」の暮らし(中世〜近世)

ちなみに、1900年の法律ができる前、貴族ではない「普通のドイツ人(農民や市民)」の間では、地域によって真逆の相続システムが混在していました。

* ドイツ南部・西部(均等分割エリア):フランスに近い地域では、中世・近世から農地や財産を子供全員で均等に切り分ける慣習がありました(1.2.7)。(※結果として農地がどんどん細分化され、農民が貧しくなる原因にもなりました)

* ドイツ北部・東部(長男・末子単独相続エリア):プロイセンなどがある地域では、農地がバラバラになるのを防ぐため、長男(または一番下の男の子)が1人で全てを引き継ぎ、他の兄弟は都市へ出稼ぎに行くという単独相続が主流でした。


ポーランド王国(シュラフタと呼ばれる貴族階級)

ポーランドの貴族社会(シュラフタ)も、徹底した平等主義の分割相続でした。

* 具体例:ある家系が王から「公爵(Prince)」などの爵位を授かった場合、その一族の血を引く子供(主に男子の血統)は全員が未来永劫、同じ公爵のタイトルを共有しました。


ポーランドに関しては、「財産の均等分割」は20世紀以降ではなく、むしろ中世・近世(14世紀〜18世紀末)の時代から、貴族の間で徹底して行われていました。

ハンガリーとは歴史的な経緯が真逆であり、ポーランドは「大昔から財産を均等に分けすぎて自滅した国」です。


1. ポーランド独自の「シュラフタ平等主義」:大昔から均等

近世のポーランド王国(ポーランド・リトアニア共和国)では、シュラフタ(Szlachta)と呼ばれる貴族階級が人口の約10%(ヨーロッパ平均の約10倍)も存在していました。 [1, 2]

彼らの最大の法律的・思想的特徴は「貴族は全員、生まれながらにして完全に平等である」という点でした。

* 爵位(タイトル)の拒否:彼らは「誰かが公爵や伯爵を名乗ると、貴族の間に上下関係ができる」として、他国からの爵位を法律で禁止するほど平等を徹底していました。 [1, 2]

* 財産の均等分割(中世・近世からの慣習):この徹底した平等主義により、父親の遺産(領地や農民、財産)は、長男が総取りするのではなく、息子たちの間で完全に均等に分割して相続されました。


2. 「大昔から均等だった」からこそ起きた国の崩壊

イギリスのように「長男が全てを継ぐ」システムがなかったため、ポーランド貴族は世代交代のたびに領地が細分化されていきました。

* 「1つの村を50人の貴族が分け合う」異常事態:数世代経つと、領地が小さくなりすぎて「立派な紋章と貴族の権利はあるけれど、自分の手で畑を耕さないと生きていけない」という極貧貴族(裸足の貴族・小作貴族)が大量に生まれました。

* 国家の消滅へ:ごく一部の巨大な土地を維持できた大貴族(マグナート)が貧しい貴族たちを国会(セイム)で買収し、政治を麻痺させました。結果として国力が絶望的に弱まり、18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって国ごとバラバラに山分けされ、ポーランドという国家自体が地図から完全に消滅(ポーランド分割)することになりました。


一夫否決権(リベルム・ヴェト、ラテン語: Liberum Veto)は、近世(17〜18世紀)のポーランド王国(ポーランド・リトアニア共和国)の国会(セイム)で採用されていた、「議員が1人でも反対すれば、どんな法案も否決され、その国会自体が即座に解散になる」という、世界史的にも類を見ない恐るべき全会一致のルールです。

先ほど解説したポーランド貴族(シュラフタ)たちの「貴族は全員、生まれながらにして完全に平等であり、誰の自由も侵害されてはならない」という究極の平等主義が、最悪の形でシステム化されたものでした。

このルールがどのように国を破滅へ導いたのか、その凄惨な仕組みを解説します。


1. 「一夫否決権」の scannable な特徴

* たった1人の「反対(ニェ・ポズヴァラム)」で全てが白紙国会でどれだけ有益な法案(国の防衛費を上げる、税金をまっとうに集めるなど)が議論されていても、たった1人の議員が「私は認めない(Nie pozwalam)」と叫ぶだけで、その法案は即座にゴミ箱行きになりました。

* その国会での決定が「すべて無効」になる狂気のルールさらに恐ろしいのは、その法案が否決されるだけでなく、「それまでの数週間の国会で可決されていた他のすべての法案も連動してすべて無効」になり、国会そのものが強制解散させられました。

* 機能不全に陥った国家17世紀後半からの約100年間で、開かれた国会のうち3分の1以上(55回中18回)が、この一夫否決権のたった1回の発動によって完全に「崩壊・無効化」されました。中には、始まって数分で誰かが反対を叫び、何も決めずに解散した国会もありました。


2. なぜこんな異常なルールが維持されたのか?

普通の国ならすぐに廃止するようなルールですが、ポーランド貴族たちはこれこそが「国王の独裁を防ぎ、自分たちの自由を守る最高の盾(デモクラシーの極み)」であると信じ込んでいたため、頑なに守り続けました。

しかし実際には、このルールは以下の2つの最悪な結果を生みました。


① 大貴族(マグナート)による「貧しい貴族」の買収

前述の通り、ポーランドには財産の均等分割で貧しくなった貴族が大量にいました。

自分が通したい利権がある、あるいは自分が損をする法律を潰したい大貴族は、貧しい貴族を1人買収して、国会で「私は認めない!」と叫ばせるだけで、簡単に国会をコントロールすることができたのです。


② 近隣の大国(ロシア・プロイセン・オーストリア)のオモチャにされた

ポーランドが強くなると困る周囲の国々(特にロシア帝国のエカチェリーナ2世など)にとって、一夫否決権は最高の道具でした。

ポーランドが軍隊を強くしようとするたびに、ロシアがポーランドの売国奴議員に裏金を渡し、国会を一夫否決権で爆破(強制解散)させ続けました。これによりポーランドは軍隊も持てず、税金も集められない「中身が空っぽの国」にされてしまいました。


3. そして、悲劇的な結末(ポーランド分割)へ

1791年、ポーランドの愛国者たちは「このままでは国が滅びる」と危機感を抱き、命がけで一夫否決権を廃止する「5月3日憲法」を可決しました。

しかし、時すでに遅しでした。ポーランドがまともな近代国家になることを恐れたロシアとプロイセンが即座に大軍で侵攻。一夫否決権を奪われて弱体化していたポーランドは抵抗できず、1795年に完全に国土を奪われ、国家そのものが123年間、地球上から消滅することになりました。

↑ポーランド・・・。


ロシア帝国

ロシアもドイツの影響を強く受けていたため、基本的には全員が爵位を受け継ぎました。トルストイの小説などで「〇〇公爵」や「〇〇伯爵」が何人も登場するのは、兄弟や親戚が全員同じ爵位を保持しているためです。


2. なぜ「全員に引き継ぐ」ことが可能だったのか?

イギリスと大陸ヨーロッパでは、「爵位」に対する考え方が根本から異なっていました。


イギリス(議会席と結びついた「椅子」):

イギリスの爵位は「ハウス・オブ・ローズ(貴族院)」の議席と直結した、社会に1つしかない席(ポスト)でした。そのため、1つの爵位を兄弟で分割することはできず、必ず長男1人だけが継承しました。


ドイツなど(血統そのものの「証明書」):

大陸ヨーロッパにおける爵位は、ポストではなく「その一族がどれだけ高貴な血筋か」を示すアイデンティティ(血統の資格)でした。そのため、父親に子供が4人いれば、その高貴な血は4人に等しく流れていると考えられ、全員が同じ爵位を名乗ることが許されたのです。


このシステムがもたらした「貴族の没落」

一見、子供全員が貴族になれて幸せそうですが、爵位は全員で均等に分け合えますが、「領地や財産」までも全員で均等に分割してしまうと、世代を重ねるごとに1人あたりの領地はどんどん小さくなってしまいます。

結果として、ドイツやポーランドには「名前は立派な『伯爵』や『男爵』なのに、一般の農民と変わらないほど貧しい暮らしをしている貴族(没落・極貧貴族)」が大量に生まれることになりました。


ハンガリーにおける「女子の相続」の歴史的リアル

近世以前(ハプスブルク帝国時代など)のハンガリーの貴族社会において、女子の相続権は次のような制限付きのものであり、決して「男子と均等」ではありませんでした。

* 娘のクォーター制(Quartalitium / 女四分の一権):中世以来、父親の遺産(不動産や領地)のうち、娘たち全員に割り当てられるのは「全体の4分の1(25%)」のみでした。残りの4分3は男子(息子たち)が独占して相続しました。

* 男子優先・直系優先の原則:家名や主たる領地は男子が引き継ぐのが大原則であり、女子は財産の大部分から排除されていました。

そのため、ご指摘の通り「男女に関わらず子供の数だけで財産を完全に均等分割する」という近代的な法制度は、20世紀半ばの共産主義政権下(あるいは戦後の民主化プロセス)で旧貴族制度が解体されて初めて確立したものです。

↑AIさん。以前、調べた時に20世紀の英国作家の誤解だった20世紀に改定された法律、出してきてたんですよ。信じられない。それを指摘して上記の内容です。


さて、韓国を見てみましょう。


儒教以前の韓国は「驚くほど男女が平等で、長男・次男の区別なく、実力のある者が家を引っ張る社会」でした。

当時の家族観や、次男・さらには「娘」がどのように当主(リーダー)層になっていったのか、その実態を解説します。

1. 儒教以前の「家族・相続」の scannable な特徴

財産の相続:

儒教以前(高麗時代など) 男女・長幼を問わず完全に均等

儒教以降(李氏朝鮮時代) 長男が総取り、または大幅に優遇


法事(祭祀)の義務:

儒教以前(高麗時代など) 兄弟姉妹でローテーション(交代制)

儒教以降(李氏朝鮮時代) 長男(本家)の絶対的な独占義務


結婚後の住まい:

儒教以前(高麗時代など) 婿入り婚(男性が女性の実家に住む)

儒教以降(李氏朝鮮時代) 嫁入り婚(女性が男性の実家に染まる)


次男や娘の地位:

儒教以前(高麗時代など) 実力があれば一族のトップになれる

儒教以降(李氏朝鮮時代) 長男に従うサブの立場に固定される


2. 次男でも、なんなら「娘の婿」でも当主になれた理由

儒教以前の社会では、「正妻の産んだ長男が一番偉い」という絶対的な縛りがありませんでした。そのため、次男が実質的・伝統的な意味でも家のトップに立つことはごく自然に行われていました。


① 財産が完全に均等だった

高麗時代の法律や実際の遺言状(分財記)を見ると、財産は「息子も娘も、長男も次男も、完全に同じ割合で等分」されていました。

次男だからといって経済的に不利になることはなく、自分の実力や商才、あるいは武功(戦争での活躍)次第で、長男をはるかに凌ぐ財産と勢力を築くことができました。


② 法事(祭祀)を次男や娘が取り仕切った

朝鮮時代には長男だけの聖域だった「先祖の法事」ですが、高麗時代には「今年は長男、来年は次男、再来年は長女の家」といったように、兄弟姉妹が順番で行う(輪行)のが普通でした。

もし長男が無能であったり遠方にいる場合は、地元に残った優秀な次男や、しっかり者の娘がその一族の法事と本家(財産)を一括して管理する「実質的かつ伝統的な当主」になりました。


③ 婿入り婚(妻の実家パワー)の強さ

当時は男性が女性の家に長期間同居する「婿入り婚(「男帰女家婚」)」が一般的でした。

そのため、次男が有力な一族の娘と結婚した場合、「妻の実家のバックアップ」を得て、自分の実家の長男よりも圧倒的に強い権力を持つ当主層へとのし上がることができたのです。


3. 三国時代(新羅)の究極形:「女王」の誕生

さらに時代を遡った新羅(しらぎ)時代には、血統の格付け制度である「骨品制(こっぷんせい)」において最高位の血筋(聖骨)であれば、男性の跡継ぎがいなくても、次男どころか「娘」がそのまま国家のトップ(当主)である「女王(善徳女王など)」になることすら可能でした。これは男尊女卑の儒教社会(李氏朝鮮)では絶対に不可能な、古代・中世ならではの柔軟さでした。


結論

韓国の歴史において、次男が「長男の影」に隠れて法事の主役すら奪われるようになったのは、17世紀以降(李氏朝鮮の中期以降)に儒教がガチガチに教条化されてからの「比較的新しい現象」にすぎません。

それ以前の長い歴史(古代〜中世)においては、次男であれ娘であれ、実力と運さえあれば一族の堂々たるトップ(当主)になれる、非常に風通しの良い社会だったのです。

↑この辺りは韓国漫画では儒教以前の状態が使われているように見えますが、実は儒教以降の制度で科挙が身分制に重要度が高いからです。


総論

誰でも当主になれるなら、お家騒動が起きやすい。

誰もが親の爵位を引き継ぐなら、財産分与も均等になって、持参金の多い嫁を貰って収入なり、資産なりを増やさないと畑を耕さないと収入がない貴族になる。だから、領地だけは長男相続にして分割を避ける。

ナーロッパや韓国漫画の次男以降の平民になるは、英国に準じているか(爵位の相続はヨーロッパ大陸で、後妻になった愛人の子どもの扱いはドイツの一部なのに?!)、韓国由来の何か。

ヨーロッパ大陸だと公爵の子ども全員が生まれながらの公爵で、跡取りだけが小公爵と呼ばれる韓国漫画はおかしいって話です。

英国式だったら、未婚の両親から生まれただけでのちに結婚しても爵位が継承できませんし、ナーロッパを書く時は気を付けたほうがいいです。

え? 自分の考えた作品だから、自分の考えた制度を使う? いいんじゃないですか、それで。

ただ、ナーロッパで小〇〇(爵位)は萎えます。韓国漫画ですか!

ヨーロッパで大〇〇小〇〇といえば、大ジョン、小ジョンのように同名の二人を区別する方法なので、父親と息子が同じ名前やら、孫と祖父などの血縁。偶然、同じ一団に同名がいて、身長で大ジョン、小ジョンになることもあります。


韓国漫画式はこうなっています。

後妻になった愛人の子どもの扱いはドイツの一部の地方か韓国式。

成人後の身分は英国式。

財産の相続も英国式。

跡取りの敬称は小〇〇(爵位)の韓国式。


韓国漫画も儒教以前と以後の制度が混じっているように見えるわけは、跡取りが長男だとは限らないからです。なんだったら、娘でも男兄弟、押し退けて当主になる韓国漫画ありますよね。

儒教以降でも、長男が科挙に落ちれば、科挙に合格した次男が当主になれたそうです。

その場合、祭祀のみは長男がおこなうとAIさんが教えてくれましたが、兄だからと威張っていても、弟に当主の座を奪われるのは、三代続けて科挙に落ちたら平民落ちの制度が影響しているからかもしれません。

科挙SUGEEE! 儒教に勝っている!

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