第四十五章 空白の危うさ
家康の死から数年。
天下は穏やかに見えながら、その底では静かな変化が進んでいた。
秀忠は慎重な政を進め、
大御所のような強烈な圧力を豊臣家に向けることはない。
だが、その「圧の消失」こそが、
大老の盟にとって最大の危機だった。
脅威がある間は、人は結束できる。
だが、脅威が薄れれば、
それぞれの家は、自らの事情へと目を向け始める。
島津は南へ、上杉は北へ、前田は家中へ――
かつて固く結ばれていたはずの盟が、
少しずつ、静かに緩み始めていた。
空白は、時に脅威よりも危うい。
その危うさを見つめる章が、ここから始まる。
一
秀忠の治世が始まって、数年が過ぎた。表向き、天下は穏やかな日々を重ねていた。だが、佐和山の次郎兵衛のもとには、次第に、思わしくない報せが届き始めていた。
「達安殿。近頃、大老の盟の中に、隙間風が吹いておるように感じませぬか」
「隙間風、とは」
「大御所様という、はっきりとした脅威がおられた頃は、皆、危機感を共有できておりました。ですが今は――」
達安は、思い当たる節があるようだった。
「島津殿からは、近頃、盟への返答が、以前より遅くなっておる。上杉殿も、伊達との境目争いにかかりきりで、盟の会合にも、代理の者しか寄越さぬことが増えた」
「前田は、いかがにございますか」
「前田は、既に利常様の代になって久しい。利常様御自身は、兼続殿の御息女を御正室に迎えられ、大老の盟との縁もしかと結ばれておられる。ただ――利長様が生きておられた頃のような、あの熱意までは感じられぬというのが、正直なところだ」
次郎兵衛は、静かに目を伏せた。元和三年、まつは金沢にて世を去っていた。豪姫のもとへ母を送り届けたあの日から、二十年近くもの歳月を、次郎兵衛はまつと共に歩んできたのだった。
(利長様が身罷られ、まつ様もまた、お隠れになった。あの二つの熱意――前田家を大老の盟へと結びつけた、始まりの人と、その支え手――が、共に失われて久しい。それでも、この盟を守り抜けるかどうか――それは、それがしたち自身の力量にかかっている)
次郎兵衛は、静かに絵図を見つめた。かつて、これほど固く結ばれていたはずの盟が、今、少しずつ、その結び目を緩め始めていた。
二
次郎兵衛は、この危うさを、秀家に率直に伝えた。
「殿。大老の盟は、大御所様という、共通の脅威があったからこそ、固く結束できておりました。ですが秀忠様の御代は、あの頃ほど分かりやすい脅威を、我らに示しませぬ」
「脅威なき盟は、長くは保たぬ、ということか」
「はい。人は、明確な危うさがある間は結束できても、それが薄れれば、おのおのの家の事情を優先し始めるものにございます。島津殿は南の琉球・異国との交易に、上杉殿は北の国境に、前田殿は御家の代替わりに――それぞれの盟に、目が向き始めておりまする」
秀家は、腕を組んだ。
「では、どうする。今一度、危機感を煽るのか」
「いえ。それは、それがしの流儀ではございませぬ」
次郎兵衛は、静かに首を振った。
「危機感で結んだ盟は、危機が去れば緩みまする。ですから、これからは、危機ではなく、**利**で結び直す時にございましょう」
三
次郎兵衛は、大老の盟の各家に、新たな提案を持ちかけ始めた。瀬戸内の水運を通じた交易の融通、上杉と伊達の境目争いへの調停の申し出、前田の代替わりに際しての後見――それぞれの家が抱える、個別の悩みに、盟の枠組みを使って手を差し伸べる形である。
「達安殿。盟というものは、脅威から身を守るためだけのものであってはなりませぬ。互いの利になる――それでこそ、脅威が去った後も、続いていくものにございましょう」
「危機で結び、利で繋ぎ直す、か。そなたらしいやり方だ」
次郎兵衛は、僅かに笑った。
「それがしにできることは、いつも、これぐらいのものにございます」
だが、その笑顔の裏で、次郎兵衛は、静かな危機感を抱き続けていた。将軍代替わりという、最大の節目が近づく中で、大老の盟がその時までに、本当に一枚岩でいられるか――その答えは、まだ誰にも分からなかった。
佐和山の空に、これまでとは違う種類の、静かで長い戦いの気配が漂い始めていた。
大老の盟は、家康という共通の脅威があったからこそ結束できた。
だが、秀忠の慎重な治世は、
その脅威を薄れさせ、
盟の結び目を静かに緩めていった。
島津は南方の交易へ、
上杉は伊達との境目争いへ、
前田は代替わりと家中の安定へ――
それぞれが自家の事情へと目を向け始める中で、
次郎兵衛は、盟の危うさを誰よりも早く察した。
危機で結んだ盟は、危機が去れば緩む。
ならば、これからは危機ではなく、
「利」で結び直すしかない。
瀬戸内の水運、境目争いの調停、代替わりの後見――
それぞれの家が抱える悩みに、
盟の枠組みを使って手を差し伸べることで、
結び目を再び固くする。
だが、その裏で次郎兵衛は、
最大の節目――家光への将軍宣下が近づいていることを感じていた。
その時までに、盟が一枚岩でいられるかどうか。
第四十五章はここで幕を閉じる。
静かで長い戦いの気配が、佐和山に満ち始めていた。




