第四十四章 秀忠の親政
大御所・家康の死からひと月。
天下は静けさを保っていたが、その静けさは決して安定ではなく、
新たな形を探るための“移り変わりの静けさ”だった。
秀忠は、父とは異なる流儀で政を進め始めていた。
力業ではなく、法度と規則。
独断ではなく、老中との合議。
その慎重さは、豊臣家にとって脅威にもなり得るが、
同時に、理をもって対することができる相手でもあった。
家康の時代が終わり、
秀忠の時代が静かに幕を開ける。
その変化を見極めるための章が、ここから始まる。
一
家康の死から、ひと月ほどが過ぎた。次郎兵衛のもとに、京・大坂・駿府それぞれから、様々な報せが届き始めていた。
「秀忠様、諸大名への法度をより一層厳しくされる由にございます」
達安の報告に、次郎兵衛は静かに耳を傾けた。
「大御所様の代とは、違う色を出そうとしておられるのですね」
「うむ。大御所様は、御自身の威光と経験で、いわば力業で諸大名を抑えておられた。ですが秀忠様は、そうした個人の力量よりも、法度や規則で、物事を定めようとする質のようだ」
次郎兵衛は、腕を組んだ。
(型に嵌める将軍、か)
「これは、我らにとって、良いことでもあり、悪いことでもございましょう」
「どういうことだ」
「秀忠様が法度を重んじられるならば、こちらも、序列や慣例という『型』を持ち出せば、無下にはできますまい。ですが、その分、大御所様のような、その場限りの融通も利きにくくなりましょう」
二
程なくして、次郎兵衛は、秀忠の人柄について、より詳しい話を耳にすることになった。
「秀忠様は、大御所様に比べ、随分と慎重な御方だそうだ」
「慎重、とは」
「大きな決断を、御自身一人でなさることを好まれぬ。老中衆との合議を重んじられ、独断で事を進めることは少ないとか」
次郎兵衛は、これを聞き、僅かに表情を緩めた。
「それは、我らにとって、むしろ好都合やもしれませぬ」
「なぜだ」
「合議を重んじる御方であれば、大老の盟という、こちらの『合議』にも、頭ごなしに異を唱えにくいはずにございます。理屈が通れば、それを無視して押し通すことを、好まれぬでしょうから」
達安が、感心したように頷いた。
「大御所様とは、また違う攻め方が要る、ということか」
「はい。力で押す御方には、力の均衡で応じ、型を重んじる御方には、型そのもので応じる――それだけのことにございます」
三
次郎兵衛は、秀家にこの見立てを伝え、当面の方針を定めた。
「殿。秀忠様の御代は、恐らく、これまでのように激しい攻防にはなりますまい。ですが、それは、油断して良いということではございませぬ」
「どういうことだ」
「秀忠様は、御自身の代で、何か大きな事を仕掛けてくるというより、次の代――家光様への継承に向けて、着々と地固めを進められるはず。将軍職の世襲を、より一層当たり前のものとして、天下に知らしめようとされましょう」
秀家は、深く頷いた。
「そなたが、ずっと待ち続けておった節目が、いよいよ近づいておるということだな」
「はい。家光様への将軍宣下――その時にこそ、鐘銘の一件、そして千姫様を巡る一件、二つの記録を持ち出し、『将軍宣下には、大老の盟の合議を経ることを、慣例とすべし』と迫りまする」
次郎兵衛は、文箱の中の書付を思い浮かべながら、静かに続けた。
「それまでは、秀忠様の御代を、注意深く見守るのみにございます」
佐和山の空に、穏やかな、しかしどこか張り詰めた日々が続いていた。次の将軍代替わりという、次郎兵衛が長らく見据えてきた節目へ向けて、時計の針が、静かに進み始めていた。
秀忠の政は、家康のそれとはまったく異なる色を帯びていた。
力で押すのではなく、型で押す。
威光ではなく、法度。
独断ではなく、合議。
その慎重さは、豊臣家にとって脅威ではなく、
むしろ「理を通せる余地」を生むものだった。
だが、油断はできない。
秀忠は、自らの代で大きな事を仕掛ける御方ではない。
その代わりに、次の代――家光への継承に向けて、
着実に地固めを進めるはずだった。
将軍職の世襲を、より当たり前のものとして天下に刻むために。
次郎兵衛が長らく見据えてきた節目――
家光への将軍宣下は、確実に近づいていた。
その時こそ、鐘銘の一件と千姫の一件という二つの楔を持ち出し、
「将軍宣下には、大老の盟の合議を経るべし」という新たな慣例を打ち立てる。
第四十四章はここで幕を閉じる。
時計の針は、静かに、しかし確実に次の節目へ向かって進んでいた。




