第四十三章 訃報
元和二年卯月。
天下を長く覆い続けた一つの影が、静かに消えようとしていた。
大御所・徳川家康――
関ヶ原、大老の盟、将軍宣下、鐘銘の一件、
豊臣家と徳川家の均衡を巡るすべての局面に立ち続けた男。
その死は、豊臣家にとっては脅威の終わりであり、
同時に、次の時代の始まりでもあった。
だが、勝利の高揚はなかった。
長い戦いの果てに訪れた静けさは、
むしろ新たな緊張を孕んでいた。
家康という巨大な重しが外れた今、
天下は再び形を変えようとしている。
その変化を見極めるための章が、ここから始まる。
一
元和二年、卯月。次郎兵衛は、その報せを、佐和山城の庭先で受け取った。
「大御所様、身罷られたとのことにございます」
使者の声に、次郎兵衛は、しばし言葉を失った。長きにわたり待ち続けた瞬間だった。だが、いざそれが訪れてみると、込み上げてきたのは、勝利の高揚ではなく、奇妙なほどの静けさだった。
「……そうか」
次郎兵衛は、ゆっくりと空を見上げた。駿府の方角に、変わらぬ春の雲が浮かんでいた。
(家康、身罷る――)
脳裏に浮かんだのは、関ヶ原、大老の盟、将軍宣下、鐘銘の一件、そして先の千姫を巡る攻防――これまでの戦いの数々だった。その全ての対岸に、常に立ち続けていたあの人物が、ついにいなくなった。
二
達安が、駆けつけてきた。
「次郎兵衛殿、聞いたか」
「はい、たった今」
「どう思う」
次郎兵衛は、しばし考えた後、静かに答えた。
「安堵はございませぬ。むしろ――」
「むしろ、何だ」
「これまでの戦いは、大御所様という、一人の傑物を相手にしたものにございました。ですが、これからは違いまする。秀忠様、そしていずれ将軍職を継がれるであろう御子・家光様――代替わりのたびに、また一から、相手の出方を見極めねばなりませぬ」
達安は、腕を組んだ。
「大御所という重しが外れて、秀忠様が、かえって好き勝手に動かれるということもあろうな」
「はい。あるいは逆に、大御所様という後ろ盾を失い、秀忠様が、これまで以上に慎重になられることも考えられます。どちらに転ぶか、まだ見えませぬ」
三
その夜、次郎兵衛は一人、文箱を開いた。中には、鐘銘の一件の拓本の写しと、毛利吉川広家の一件の書付が、静かに眠っていた。
(この楔を、いつ、どう使うか)
次郎兵衛は、これまで幾度となく思い描いてきた計画を、もう一度、頭の中で確かめた。将軍職が、秀忠から次の代へ――家光へと渡る、その節目にこそ、これらの記録を持ち出し、「将軍宣下には、大老の盟による合議を経ることを、慣例とすべし」と迫る。それが、次郎兵衛の描いた、長い戦いの結び目だった。
「まだ、時ではございませぬ」
次郎兵衛は、文箱をそっと閉じた。
翌朝、佐和山城下には、家康の死を悼む鐘が、遠く響いていた。史実であれば、この死の直後、豊臣家に対する最後の圧力――大坂の陣への号令が発せられていたはずだった。だが、この世界では、大坂城には秀頼が、関白・左大臣として、なお健在のまま立っている。
次郎兵衛は、静かに手を合わせた。敵として戦い続けた相手への、複雑な弔意だった。
「大御所様……あなた様が最後まで通せなんだ無理を、それがしは、しかと見届けました」
春の風が、佐和山の庭先を、静かに吹き抜けていった。ある時代の終わりと、次の時代の始まりが、同時に訪れようとしていた。
家康の死は、豊臣家にとって脅威の終わりではなく、
むしろ新たな不確実の始まりだった。
これまでの戦いは、
家康という一人の傑物を相手にしたものだった。
だが、これからは違う。
秀忠、そして家光――
代替わりのたびに、
徳川家の性格も、天下の形も変わる。
その変化を見極めることこそが、
次郎兵衛に課された新たな戦いだった。
文箱の奥には、
鐘銘の拓本と広家の一件の書付が静かに眠っている。
それらは、いずれ訪れる節目――
家光への将軍宣下の時にこそ使うべき楔だった。
家康の死を悼む鐘が佐和山に響く中、
次郎兵衛は静かに手を合わせた。
敵として戦い続けた相手への、複雑な弔意だった。
第四十三章はここで幕を閉じる。
ある時代が終わり、
次の時代が静かに幕を開けようとしていた。




