第四十二章 広家の影
千姫の一件は、ただの噂にすぎないはずだった。
だが、その噂は駿府へ届き、
本多正純を揺らし、
片桐且元を追い詰め、
豊臣家と大老の盟の間に、静かな影を落とした。
その影の正体は、吉川広家――
毛利家の一門でありながら、
家康との誼を深めることに心を砕いてきた男。
広家は、正面から豊臣家を攻めることはしない。
噂という形のない刃を使い、
大老の盟の評判を落とし、
自らの値打ちを上げようとする。
だが、この一件には、もう一つの影があった。
駿府の返答は、これまでの家康とは違う。
執拗で、粘り強く、
まるで“時間がない”者のようだった。
次郎兵衛は、その違和感を見逃さなかった。
影は広家だけではない。
駿府そのものが、揺れている。
一
次郎兵衛は、この一件をどう収めるか、慎重に思案を巡らせていた。
「達安殿。広家殿を、正面から糾弾するわけには参りませぬ」
「なぜだ。証まで挙がっておるというに」
「広家殿と毛利本家との仲は、既に危ういもの。ここで表立って責め立てれば、輝元様が広家殿を庇い立てせざるを得なくなり、かえって毛利家全体を、大御所様側へ押しやることになりかねませぬ」
達安は、唸った。
「厄介なものだな。敵の敵を、無闇に追い詰めるわけにもいかぬとは」
「はい。それがしが狙うのは、広家殿を罰することではございませぬ。大御所様御自身に、この噂が根も葉もないものだと、お認めいただくことにございます」
二
次郎兵衛は、まず片桐且元を通じ、大坂城から駿府へ、正式な使者を送らせた。
「――千姫様への御待遇、いささかも疎かにいたしたること、一度たりともございませぬ。此度の噂、いずこより出でたるものか、明らかにしていただきたく存じます」
同時に、次郎兵衛は、関白・秀頼、そして大老の盟の名において、こう申し入れた。
「かかる根拠なき噂により、大老諸家と豊臣家との間柄に、いたずらに疑いを差し挟むこと、看過できませぬ。噂の出所、明らかにしていただきたく」
この二方向からの申し入れは、駿府側を、静かに、しかし確実に追い詰めていった。
「達安殿。噂話一つで、事を構えるおつもりはございませぬ。ただ、"根拠なき噂であった"という一点さえ、大御所様御自身の口から認めていただければ、それで十分にございます」
「そこまで、事を大きくせずに収めるつもりか」
「はい。大御所様とて、根も葉もない噂を鵜呑みにした、と公然と認めるのは、決して愉快なことではございますまい。ですが、これ以上この噂を利用し続ければ、御自身の判断力そのものが疑われることになりましょう」
三
だが、駿府からの返答は、次郎兵衛が想定していたものとは違った。
「――噂の真偽はさておき、秀頼様御自身の御口から、千姫様への御真意を、大御所様に直接お示しいただきたい」
達安が、書状を握りしめたまま、声を荒げた。
「秀頼様御自身に、駿府まで参れというのか! これは、先の上洛の一件と、同じ轍ではないか」
「はい。ですが、此度は、あの時よりも一段と、強い物言いにございます」
次郎兵衛は、書状を幾度も読み返した。以前の家康であれば、無理を通せぬと悟れば、これほど固執はしなかったはずだ。それが今回に限って、噂一つにここまで執着している。
(何かが、違う)
次郎兵衛は、朝廷を通じ、今一度、丁重に、しかし断固として申し入れた。
「関白・左大臣たる秀頼様の御出向きは、序列に照らし、到底叶わぬこと。御疑念があらば、大老の盟の連署をもって、お応え申し上げまする」
だが、駿府からは、なおも食い下がる返答が続いた。金地院崇伝を通じ、「大老の盟の連署なるものが、真に諸家の総意であるか、いま一度確かめたし」と、各家へ直接使者を送ろうとする動きすら見せ始めた。
「次郎兵衛殿……これは、随分と、しつこいな」
「はい。大御所様らしからぬ、粘りにございます」
次郎兵衛は、拓本の写しと、広家の一件の書付を、じっと見つめた。
(大御所様は、もはや、これまでのように悠々と構えてはおられぬのやもしれぬ)
その考えに至った時、次郎兵衛の背筋に、冷たいものが走った。
「達安殿。もしや、大御所様は――御自身に、残された時が、そう長くないと悟っておられるのではございませぬか」
達安が、息を呑んだ。
「それゆえに、多少無理を押してでも、御存命のうちに、決着をつけておきたい、と申すのか」
「はい。これまでの大御所様は、無理が通らぬと見れば、深追いをなさらぬ御方でした。それが今回に限って、これほど固執なさる――それこそが、何よりの証にございましょう」
結局、この一件は、各家からの連署が改めて揃い、さらに高台院からも「これ以上の詮索は、豊臣恩顧の者たちの心を、いたずらに騒がせるだけ」との一言が添えられたことで、ようやく駿府側が矛を収める形となった。だが、その決着までには、以前より遥かに長い、息詰まる十日あまりを要した。
佐和山に戻った次郎兵衛の胸には、安堵よりも、むしろ深い緊張が残っていた。
「達安殿。此度の一件、大御所様が、随分と焦っておられるように見えました」
「そなたの申す通りなら……」
「はい。大御所様の御命が、そう長くはない――それが、この執拗さの正体だとすれば」
次郎兵衛は、遠く駿府の方角を見つめた。
「次に来るのは、恐らく、大御所様御自身の終わりにございましょう」
夕暮れの空に、これまでとは違う、張り詰めた沈黙が満ちていた。次郎兵衛たちの、長い待ちの時間が、本当の意味で終わりに近づこうとしていた。
広家の影を追い詰めることは容易だった。
だが、次郎兵衛が狙ったのは、
広家を罰することではなく、
家康自身に「噂は根も葉もない」と認めさせることだった。
大坂城からの正式な申し入れ、
関白・秀頼と大老の盟の連署、
そして高台院の一言――
これらが重なり、
駿府はようやく矛を収めた。
だが、その過程は、これまでとは違った。
家康は、しつこく、粘り強く、
まるで“今のうちに決着をつけねばならぬ”かのように固執した。
その執拗さこそが、
次郎兵衛に一つの確信を与えた。
「大御所様は、御自身の命が長くないと悟っておられる」
家康が健在のうちは、
豊臣家は常に影に怯えねばならなかった。
だが、その影が消える時――
次の節目が訪れる。
第四十二章はここで幕を閉じる。
駿府の沈黙は、
もはや静けさではなく、
終わりの気配だった。




