第四十一章 千姫の一件
秀頼が関白となり、豊臣家が史実を越えて最盛期を迎えたその翌年――
天下は静かに見えながら、
その底では、見えぬ波が確かに揺れ始めていた。
大老の盟は豊臣家を支え続けている。
だが、天下を揺るがすのは、
必ずしも大軍や大政だけではない。
時に、たった一つの噂が、
人の心を乱し、家を揺らし、
国を動かすことがある。
千姫――秀頼の御台所。
その立場を巡る根も葉もない噂が、
静かに駿府へと流れ始めた。
それは、誰が放ったのか。
何のために流されたのか。
そして、その刃はどこへ向けられているのか。
次郎兵衛は、また新たな影と向き合うことになる。
第四十一章 千姫の一件
### 一
秀頼の関白就任から、さらに一年ほどが過ぎた頃。佐和山に、達安が困惑した面持ちで駆け込んできた。
「次郎兵衛殿、妙な話が、駿府より流れてきておる」
「妙な話、とは」
「大老の盟が――秀頼様の御台所であらせられる千姫様の御立場を軽んじ、いずれ秀頼様に、徳川家とは縁のない、別の御台所を迎えさせようと企んでおる、との噂だ」
次郎兵衛は、思わず眉をひそめた。
「そのような話、我らの間で出たことなど、一度もございませぬ」
「無論、承知しておる。だが、この噂、既に駿府の本多正純殿の耳にまで届いておるという」
次郎兵衛は、腕を組んだ。
(根も葉もない話だ。だが、根も葉もないからこそ、厄介だ)
### 二
程なくして、大坂城にも、この一件の余波が届いた。片桐且元からの急報には、こう記されていた。
「――大御所様の御側より、内々に問い合わせがございました。秀頼様は、千姫様を蔑ろにしてはおられぬか、と。且元、身に覚えなきこととは申し上げましたが、先方は、なお疑いの色を解いてくださいませぬ」
次郎兵衛は、達安と共に、この噂の出所を探ることにした。
「誰が、何のために、かような噂を流したのか。まずは、そこからにございます」
「心当たりはあるのか」
次郎兵衛は、しばし目を伏せた後、静かに口を開いた。
「一つだけ、ございます。大老の盟に加わらなんだ家――毛利にございます」
「吉川広家か」
「はい。広家殿は、かねてより大御所様との誼を深めることに、心を砕いておられました。もし、大老の盟の評判を落とすことで、御自身の値打ちを上げられると考えたなら――」
### 三
次郎兵衛は、豪姫・まつを通じた伝手を使い、大坂城内の女房衆から、さりげなく話を集めさせた。
数日のうちに、一つの証言が浮かび上がった。数ヶ月前、大坂を訪れた毛利家の使者が、大老の盟の内々の会合の様子を、それとなく聞き出そうとしていたという。
「達安殿。この使者、恐らく広家殿の差し金にございます。我らの何気ない話――たとえば、秀頼様の御世継ぎについての、ごく普通の気遣い程度の話が、都合よく歪められ、大御所様の御耳に入れられたのでしょう」
「随分と、回りくどい真似をするものだな」
「広家殿にとっては、正面から我らを攻めるより、遥かに安全な策にございます。噂の出所さえ隠せれば、御自身は手を汚さずに済みまする」
次郎兵衛は、拓本の写しをしまった文箱の隣に、新たな一枚の書付を加えた。「毛利吉川広家、千姫の一件に関与の疑いあり」――。
(大御所様、これが、あなた様の最後の一手であるかどうかは、まだ分からぬ。だが――もしそうであるならば、受けて立ちましょう)
佐和山の空に、これまでとは違う種類の、静かな決意が満ちていた。
千姫の立場を巡る噂は、
根も葉もないものでありながら、
駿府の本多正純の耳に届き、
大坂城の片桐且元を揺さぶり、
豊臣家の内部に不穏な影を落とした。
その出所を探るうちに、
一つの名が浮かび上がる――吉川広家。
大老の盟に加わらず、
家康との誼を深めることに心を砕いてきた男。
広家は、正面から豊臣家を攻めることはしない。
噂という形のない刃を使い、
大老の盟の評判を落とし、
自らの値打ちを上げようとする。
次郎兵衛は、その証を文箱に静かに収めた。
「毛利吉川広家、千姫の一件に関与の疑いあり」
これは、家康の最後の一手かもしれない。
あるいは、広家自身の野心かもしれない。
だが、いずれにせよ――
受けて立つしかない。
佐和山の空には、これまでとは違う種類の、
静かな決意が満ちていた。
第四十一章はここで幕を閉じる。
次の影は、もうすぐそこまで迫っている。




