第六部 最後の一手 第三十九章 信尹の遺言
慶長十九年霜月。
京の空に立ち上る荼毘の煙は、一つの時代の終わりを静かに告げていた。
関白・近衛信尹――
豊臣と徳川の均衡を支え続けた、朝廷の柱が倒れたのである。
その死は、単なる摂家の交代ではない。
秀頼を左大臣に据え、
大老の盟を成立させ、
鐘銘の一件でも朝廷の権威をもって家康の言いがかりを退けた、
あの信尹の死は、
天下の力の流れを大きく揺るがす。
次の関白を誰に据えるか――
それは、豊臣家の未来を左右する「最後の一手」へと繋がる。
第六部は、ここから始まる。
一
慶長十九年霜月、京の空に、荼毘の煙が静かに立ち上っていた。関白・近衛信尹、薨去。享年五十。
次郎兵衛は、佐和山にてその報せを受け取り、しばし瞑目した。
「達安殿。信尹様が身罷られた今、朝廷では、次の関白を誰にするかで、既に評定が始まっておりましょう」
「信尹様には、御子がおられぬのだったな」
「はい。後陽成院の御子・信尋様を養子に迎えてはおられましたが、まだ元服されて間もない若さ。本来ならば、次の関白は、他の摂家――九条家、鷹司家、あるいは二条家あたりから選ばれるのが、順当な流れにございましょう」
次郎兵衛は、静かに続けた。
「ですが、それがしには、思うところがございます」
二
京の朝議では、案の定、次の関白を巡って、五摂家の間に静かな駆け引きが生じていた。
「近衛家の信尋殿は、あまりに若すぎる。ここは、経験豊かな者が継ぐべきであろう」
九条家の当主が、そう主張すれば、鷹司家からも異論が上がった。
「いや、そもそも、近衛信尹殿が関白であったこと自体が、本来の慣例からは外れておった。ここらで、摂家の本来の持ち回りに戻すべきではないか」
この評定の場に、思いがけない意見が投じられたのは、二条家の当主からだった。
「――待たれよ。豊臣家の秀頼殿には、関白を継ぐ、正当な血筋がござろう」
一同が、怪訝な顔を向けた。
「太閤秀吉殿は、確かに関白であられた。その跡を継いだ秀次殿は、あくまで猶子――養子にすぎなんだ。だが、秀頼殿は、太閤殿下の実の御子。血筋の正しさで申せば、秀次殿よりも、遥かに正統な後継者と言えような」
この一言に、評定の場は、にわかにざわめいた。
三
この議論は、程なくして、京の高台院、そして佐和山の次郎兵衛のもとにも伝わった。
「次郎兵衛殿、聞いたか。二条家の当主が、秀頼様の血筋を持ち出したそうだ」
「はい。願ってもない流れにございます。ですが、これを確かなものにするには、朝廷の総意――そして何より、帝の御意志を得ねばなりませぬ」
次郎兵衛は、まつ・豪姫を通じ、高台院にも内々に働きかけを依頼した。太閤秀吉の縁者として、高台院の声は、朝廷内でも重んじられていた。
「わらわからも、然るべき方々に、それとなくお伝えしておきましょう。太閤様の御子が、太閤様と同じ座に就く――これほど筋の通った話もございますまい」
次郎兵衛は、深く頭を下げた。
「有り難きお言葉にございます」
だが、この話が本当に実を結ぶかどうかは、まだ、帝御自身の御意向にかかっていた。
信尹の死は、朝廷に空白を生み、
摂家の間に静かな駆け引きを呼び起こした。
九条、鷹司、二条――
それぞれが自家の権威を取り戻そうとする中で、
二条家が放った一言は、
まるで闇に差し込む光のようだった。
「秀頼殿こそ、太閤の正統なる後継者」
この言葉は、豊臣家にとって願ってもない流れであり、
同時に、家康にとっては最も避けたい展開だった。
だが、この流れを確かなものにするには、
朝廷の総意と、
何より帝の御意志が必要となる。
高台院の情、
まつと豪姫の縁、
そして次郎兵衛の理――
それらが静かに結び合い、
一つの大きな流れを形づくろうとしていた。
信尹はもういない。
だが、彼が残した「道筋」は、
確かに次の者たちへ受け継がれていた。
第三十九章はここで幕を閉じる。
次の一手は、すでに動き始めている。




