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第三十八章 蓄えた楔

鐘銘の一件は、表向きの決着を迎えた。

駿府は沈黙し、追及は立ち消えとなり、

天下は何事もなかったかのように静けさを取り戻した。

だが、その静けさは、嵐の後の静寂ではなく、

嵐の前の静まり返った空気に近い。

家康は動かず、声も発せず、

ただ駿府にて静かに日々を重ねている。

その沈黙こそが、最も不気味だった。

佐和山では、次郎兵衛が文箱の奥にしまった拓本を見つめ、

この記録がいずれ必ず使える「楔」になることを確信していた。

今はまだ動かぬ。

だが、節目は必ず訪れる。

その時のために――楔を蓄える。


 鐘銘の一件から、幾月かが過ぎた。表向き、天下は何事もなかったかのように、静かな日々を重ねていた。だが、次郎兵衛の胸には、消えぬ緊張が居座り続けていた。


「達安殿。大御所の御様子は」


「変わりない。駿府にて、静かに過ごしておられるとか」


「それが、かえって不気味にございます」


 次郎兵衛は、文箱の奥にしまい込んだ拓本の写しを、時折り取り出しては見つめていた。「国家安康」――この文言を巡る顛末は、家康にとって、公の場での明確な失態として、既に京・大坂・駿府の間に知れ渡っている。


(この記録は、消えぬ。だが――今、これを振りかざす時ではない)



 秀家の御前にて、次郎兵衛は、これからの方針を静かに語った。


「殿。此度の一件、我らの勝ちにございます。ですが、それがしは、この勝ちを、今すぐには使いませぬ」


「なぜだ。せっかく得た大義名分ではないか」


「大御所様が御存命の間は、大御所様御自身の威光と経験が、なお天下を押さえておりまする。此度の失態一つで、大御所様の力が揺らぐことは、まずございませぬ。今、これを振りかざせば、かえって大御所様の意地を刺激し、より苛烈な仕返しを招きかねませぬ」


 秀家は、腕を組んだ。


「では、いつ使う」


「大御所様が身罷られ、将軍職が、次の代へと渡る、その時にございます」


 次郎兵衛は、静かに、しかし確かな声で続けた。


「将軍職が、無条件に、当たり前のように世襲されていく――それこそが、この天下の、最も恐ろしい行く末にございます。将軍が代替わりするその節目にこそ、此度の一件を持ち出し、『将軍宣下には、大老の盟による合議を経ることを、慣例とすべし』と迫りまする」



 その夜、次郎兵衛は達安と共に、佐和山城の高台に立っていた。遠く駿府の方角に、変わらぬ夜空が広がっている。


「次郎兵衛殿。そなたは、随分と気の長い戦をするものだな」


「戸川殿。それがしは、いつも、そうにございます」


 次郎兵衛は、静かに笑った。


「関ヶ原も、大老の盟も、此度の鐘銘の一件も――全ては、いずれ来る、もっと大きな節目のための、備えに過ぎませぬ。今すぐに全てを変えることはできぬ。ですが、変えるべき時が来た時、手ぶらであってはならぬ」


「その節目とは、いつのことだ」


 次郎兵衛は、しばし沈黙した後、静かに答えた。


「それがしにも、正確には分かりませぬ。ですが――遠くはございますまい」


 達安は、次郎兵衛の横顔を、しばし見つめた。


「そなたのその『気の長さ』に、これまで何度助けられたことか。此度も、そなたの読みに賭けよう」


「有り難きお言葉」


 夜風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。方広寺の鐘の音は、もう聞こえない。だが、その銘文に刻まれた記録は、確かに、次郎兵衛たちの手の中に、静かに蓄えられていた。


 抜かれることのない楔を、いくつも打ち込みながら――次郎兵衛の戦いは、なおも続いていく。


---



鐘銘事件は表向き収まった。

だが、家康の沈黙は、決して忘却ではない。

むしろ、豊臣家への深い屈辱として、

静かに胸の内に沈殿しているはずだった。

次郎兵衛は、その危うさを誰よりも理解していた。

だからこそ、勝ちをすぐに使わない。

大御所が健在のうちは、

その威光と経験が天下を押さえ続ける。

今、楔を振りかざせば、

かえって家康の意地を刺激し、

より苛烈な仕返しを招きかねない。

使うべき時は、将軍職が次の代へ渡る節目――

天下の形が変わる瞬間である。

その時にこそ、

「将軍宣下は大老の盟の合議を経るべし」

という新たな慣例を打ち立てる。

それは、豊臣家の未来を守るための、

最も長い視野を持った一手だった。

鐘の音はもう聞こえない。

だが、その銘文に刻まれた記録は、

確かに次郎兵衛の手の中で、

抜かれぬ楔として蓄えられていた。

第三十八章はここで幕を閉じる。

戦いは静かに続いていた。

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