第三十六章 高台寺の客人
鐘銘の一件が天下に波紋を広げる中、
京の高台寺では、かつて豊臣家を支え続けた一人の女性が、
静かにその報せを受け取っていた。
高台院――北政所、寧々。
太閤秀吉の妻として、幾度も家中の争いを鎮め、
豊臣の家を「情」で守り続けた人物である。
その高台院のもとを、豪姫とまつが訪れる。
三人の女たちが静かに向き合うその場には、
政の理ではなく、
太閤の代から積み重ねられてきた“情の糸”が確かに息づいていた。
この章は、豊臣家を支えるもう一つの柱――
「女たちの縁」が動き始める瞬間である。
一
方広寺の供養を旬日後に控えたある日、高台院のもとに、思いがけない客が訪れた。豪姫と、まつである。
「高台院様。此度は、急な訪いをお許しくださいませ」
豪姫が深々と頭を下げると、高台院は目元を緩めた。
「よう参られた。太閤様の御代より、豊臣家に連なる者同士、遠慮など無用にございましょう」
まつが、静かに口を開いた。
「大坂の様子、耳に入っておりましょうや」
「ええ。鐘銘の一件、聞き及んでおります。それゆえ、こちらからも、及ばずながら文をしたためたところにございます」
豪姫が、驚いたように顔を上げた。
「高台院様が、御自ら動いてくださったのですか」
「太閤様が身罷られてより、それがしにできることなど、もはや多くはございませぬ。ですが、清正や正則たちの心に、まだ届く言葉があるならば――それぐらいは、してやりたいと思うたのです」
二
三人は、しばし庭を眺めながら、言葉少なに茶を含んだ。やがて、まつが、ぽつりと呟いた。
「思えば、随分と遠くまで来たものにございますな」
「まつ様……」
「豪姫が岡山に、この私を呼び寄せてより、幾年になりましょうか。あの頃は、ただ母を思う娘の願いとばかり思うておりましたが」
まつは、豪姫の顔を、優しく見つめた。
「今にして思えば、あれもまた、大きな流れの、最初の一滴であったのやもしれませぬ」
豪姫は、僅かに目を伏せた。
「私は……ただ、母上にお会いしとうございました。それだけにございます」
「それで、良いのですよ」
高台院が、静かに言葉を継いだ。
「情から出た願いが、結果として、多くの命を救う道に繋がった――それこそが、何よりの証にございましょう。理屈だけで動く政など、所詮は長くは続きませぬ」
三
日が傾く頃、まつが、ふと問うた。
「高台院様。大御所様とは、太閤様の代からの、長きお付き合いにございますな」
「ええ。あの御方も、もとより争いを好む質ではございませぬ。ただ、御立場が、それを許さぬだけのこと」
「では、この鐘銘の一件も」
「収まりましょう。今しばらくは、波風もございましょうが」
高台院は、静かに庭先の花に目をやった。
「私たちにできることは、殿方のように、盟を結んだり、朝廷を動かしたりすることではございませぬ。ただ、それぞれが結んできた小さな縁を、こういう時にこそ、そっと差し出すことだけにございましょう」
豪姫とまつは、顔を見合わせ、静かに頷いた。
三人の女たちの間に、これまで積み重ねてきた、目には見えぬ糸が、確かに一本、通っているようだった。
次郎兵衛たちの知らぬところで、この物語は、もう一つの支えを得ていた。
豪姫、まつ、高台院。
三人の女たちが静かに語り合うそのひとときは、
政の表舞台とは異なる場所で、
豊臣家を支えるもう一つの力が確かに働いていることを示していた。
高台院が送った文は、
大御所の胸にどれほど届いたかは分からない。
だが、清正・正則ら武断派の旧臣を通じて、
「事を荒立てるべきではない」という空気が、
家康の側近の一部に静かに広がり始めていた。
佐和山の次郎兵衛は、
理だけでは届かぬところに、
高台院の“情”が確かに働いていることを悟る。
理と情――
どちらか一方では、天下は動かない。
両方が揃って初めて、
大きな災いを避けることができる。
三人の女たちが結んだ目に見えぬ糸は、
確かにこの物語を支えるもう一つの柱となっていた。
第三十六章はここで幕を閉じる。
次の局面は、もうすぐそこまで迫っていた。




