第三十五章 高台院の文
鐘銘の一件が天下に波紋を広げ始めた頃、
京の高台寺では、かつて豊臣家を支え続けた一人の女性が、
静かにその報せを受け取っていた。
高台院――北政所、寧々。
太閤秀吉の妻として、幾度も家中の争いを鎮め、
豊臣の家を「情」で守り続けた人物である。
大坂では片桐且元が追い詰められ、
佐和山では次郎兵衛が「理」の楔を打とうとしていた。
だが、天下を動かすのは理だけではない。
太閤の代から続く情の繋がりが、
この危機の中で再び力を持とうとしていた。
静かに、しかし確かに――
高台院が動き始める。
一
且元が駿府で追い詰められているという報せは、京の高台寺にも届いていた。
高台院――かつての北政所、寧々は、庭先でその報せを聞き、しばし目を閉じた。
「……また、あの頃と同じことが、繰り返されるのか」
傍らに控える侍女が、怪訝な顔をした。
「あの頃、とは」
「太閤様が身罷られてすぐの頃、清正や正則たちが、治部少輔を襲おうとしたことがあったであろう。あの時も、皆、余計な意地の張り合いで、危うく血を見るところであった」
高台院は、静かに立ち上がった。
「今度は、わらわが動く番かもしれぬ」
二
高台院は、かつて自らが取り持った縁――加藤清正、福島正則ら、武断派の旧臣たちに、内々に文を送った。
「――此度の鐘銘の一件、聞き及んでおる。そなたたちも、大御所様には浅からぬ誼があろう。もし機会があらば、あまり事を荒立てぬよう、それとなくお伝えしてはくれぬか」
同時に、高台院自身も、家康へ一通の文をしたためた。
「――大御所様。太閤様が身罷られてより、幾年が過ぎましたでしょうか。あの頃、家中が二つに割れかけたのを、大御所様御自身が仲裁してくださったこと、この寧々、今も忘れており申さぬ。此度の鐘銘の一件、いかなる子細があるにせよ、豊臣恩顧の者たちの心を、いたずらに引き裂くことだけは、御老婆心ながら、お控えいただきたく存じます」
書き終えた文を前に、高台院は、深く息をついた。
(もはや、わらわにできることは、これぐらいのものよ)
三
この文が、駿府にどれほどの効き目を持ったかは、誰にも分からない。だが、清正・正則の縁を通じて、家康の側近の一部にも、「あまり事を荒立てるべきではない」という空気が、静かに広がり始めていた。
佐和山の次郎兵衛のもとにも、この動きは伝わっていた。
「達安殿。高台院様が、動いてくださったとのこと」
「ほう。大老の盟とは、また別の筋からの後押しか」
「はい。それがしたちが動かせるのは、あくまで表向きの理――序列や朝廷の建前にございます。ですが高台院様が動かせるのは、太閤様の代からの、情の繋がりにございましょう」
次郎兵衛は、静かに手を合わせるように、京の方角を見やった。
「理と、情と――両方が、大御所様に向けられている。それがしたちだけの力では、届かぬところにございました」
達安が、感心したように頷いた。
「そなたの盟は、思わぬところにも、味方を持っておるようだな」
「それがしが結んだのではございませぬ。高台院様御自身の、これまでの人徳にございます」
次郎兵衛は、そう答えながらも、胸の内で密かに思っていた。
(理だけでは、人は動かぬ。情だけでも、動かぬ。この両方が揃って、初めて、大きな災いを避けられる――)
史実になかったこの一筋の文もまた、静かに、確かに、天下の行方を支えていた。
高台院が送った文は、
大御所・家康の胸にどれほど届いたかは分からない。
だが、清正・正則ら武断派の旧臣を通じて、
「事を荒立てるべきではない」という空気が、
家康の側近の一部に静かに広がり始めていた。
佐和山では、次郎兵衛がその動きを受け取り、
理だけでは届かぬところに、
高台院の“情”が確かに働いていることを悟った。
理と情――
どちらか一方では、天下は動かない。
両方が揃って初めて、
大きな災いを避けることができる。
史実には存在しなかったこの一筋の文が、
静かに、しかし確かに、
豊臣家の未来を支えていた。
第三十五章はここで幕を閉じる。
次の局面は、もうすぐそこまで来ていた。




