↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
69/81

第三十四章 言いがかり

方広寺の鐘が鋳上がり、開眼供養を目前に控えた慶長十九年。

静かだった水面に、ついに大御所・家康の側近たちが石を投げ入れた。

「国家安康、君臣豊楽」――

その一字一句が、天下を揺るがす火種となることを、

佐和山の次郎兵衛は知っていた。

大坂では片桐且元が駿府へ走り、

淀殿は評定の割れる中で苦渋の判断を迫られ、

豊臣家は初めて、家康の“本気の圧力”を正面から受けることとなる。

罠は姿を現した。

ここから先は、豊臣と徳川の均衡を守るための、

最も危険で、最も緊迫した局面が始まる。


 供養を目前に控えたある日、大坂に激震が走った。


「金地院崇伝殿、林羅山殿らが、鐘銘の文言を『家康公の御名を分断し、呪詛するもの』と断じ、大御所に言上したとのことにございます」


 達安が、急を告げる書状を握りしめていた。次郎兵衛は、静かに頷いた。史料で読んだ通りの展開が、今、目の前で動き出している。


「片桐且元殿は、いかがされておりましょうか」


「弁明のため、急ぎ駿府へ向かったそうだ」



 だが、駿府での且元の日々は、次郎兵衛の想像以上に過酷なものだった。


 且元は、駿府城下の宿所に留め置かれたまま、幾日も家康への目通りを許されなかった。金地院崇伝は、面会のたびに、鐘銘の一字一句を執拗にあげつらった。


「この『国家安康』の文字――家康公の御名を、真っ二つに分断しておる。これが、偶然と申されるか」


「決して、さようなことは。文英清韓が申すには、太閤殿下と大御所様、双方の御安泰を願うた、めでたき文言……」


「めでたき、とな。ならば、なぜ『家康』の二字だけを、かように引き裂く形で配したのか。申し開きをされよ」


 且元は、来る日も来る日も、同じ問答を繰り返された。手元に残る唯一の頼りは、あの拓本の写しと、次郎兵衛から届いた、あの内々の書状だけだった。


(宇喜多殿は、この事態を見越しておられたのか……)


 大坂へ戻る道すがら、且元の胸には、屈辱と焦燥が入り混じっていた。



 且元が追い返されるようにして大坂へ戻ると、城内は騒然となった。


「片桐様は、大御所様に、ろくに口も利かせていただけなんだそうだ」


「このままでは、御家の御一大事ぞ」


「いや、まずは穏便に、詫びを入れるべきではないか」


 淀の方の御前でも、評定は割れた。


「且元、そなたの不手際ではないのか。なぜ、かように追い詰められる」


「淀の方様、それがしとて、身を尽くして参りました。ですが、大御所様の御側近衆は、端から言いがかりをつけるおつもりであったとしか……」


 且元は、懐から、あの拓本の写しを取り出した。


「淀の方様。宇喜多次郎兵衛殿より、この一件が起こる前に、内々にお報せがございました。大老の盟に、この件、お諮りいただけませぬか」


 淀の方は、しばし黙り込んだ。


「……あの者、まことに何かを知っておったのだな」


 佐和山に、大坂からの悲鳴に近い急報が届いたのは、その翌日のことだった。


「殿より、大老の盟へ、正式なお力添えの願いが参りました。もはや、猶予はございませぬ」


 次郎兵衛は、拳を握った。


(ここだ。ここで、動く)


鐘銘への言いがかりは、ついに公の場へと引きずり出された。

片桐且元は駿府で辱めを受け、

淀殿の御前では評定が割れ、

大坂城は騒然となった。

だが、これは罠ではなく、

次郎兵衛にとっては“待ち望んだ瞬間”でもあった。

大御所が根拠なき非難を放つならば、

それを大老の盟と信尹の権威によって退け、

家康自身に「序列上位の家を貶めようとした」という汚名を刻ませる。

そのために、あえて罠を避けず、踏み抜いた。

大坂からの悲鳴に近い急報が佐和山へ届いたとき、

次郎兵衛は拳を握り、静かに覚悟を固めた。

ここからが本番だった。

豊臣と徳川の均衡を守るための、

最大の一手を打つ時が来た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。