第三十二章 大坂の胸中
方広寺の鐘が鋳られゆく中で、大坂の空気は静かに揺れ始めていた。
供養の名をまとった大仏再建は、豊臣家にとっては太閤の遺徳を示す大事業であるはずだった。
だが、その裏には、家康が仕掛けた見えぬ罠が潜んでいる。
鐘には銘文が刻まれ、
その一字一句が、いずれ天下を揺るがす火種となる――
それを知る者は、まだ佐和山の次郎兵衛だけだった。
大坂城では、片桐且元が草案を前に思い悩み、
淀殿は迷いを振り払おうとしていた。
誰もまだ気づいていない。
この鐘が、豊臣家の命運を左右する分岐点となることを。
一
方広寺の鐘の鋳造が進む中、大坂城の一室では、片桐且元が、鐘銘の草案を前に、一人思い悩んでいた。
「――国家安康、君臣豊楽――か」
且元は、幾度もその文言を読み返した。脳裏には、佐和山の次郎兵衛から届いた、あの内々の書状の一節がある。「大御所様の御名、あるいは御一門に関わる文字を含む場合は、いかなる深慮をもってしても、慎重に過ぎることはございませぬ」――。
「文英清韓殿。この銘文にある『家康』の二字、これは、真に障りなきものでございましょうか」
銘文を選定した学僧・文英清韓は、怪訝な顔をした。
「片桐殿、何を仰る。これは太閤殿下の御供養と、大御所様の御安泰を、共に寿ぐ、めでたき文言にございますぞ。むしろ、大御所様への配慮を込めたものと申し上げても良い」
「されど……家康の二字を、かように分けて配することに、何か含みがあると見る者もおるやもしれませぬ」
「片桐殿は、いささか用心が過ぎましょう。この程度の文字遊びに難癖をつける者など、おりますまい」
且元は、なお割り切れぬ思いを抱えながらも、それ以上強く出ることができなかった。
### 二
その夜、且元は淀の方の御前に参上し、この懸念を伝えた。
「淀の方様。鐘銘の一件、念のため、今一度、文言を見直させてはいかがかと存じます」
淀の方は、片眉を上げた。
「そなたは、いつもそう用心深い。太閤殿下の御供養のための鐘に、いちいち難癖をつけられるほど、こちらに疚しいところなどあろうか」
「いえ、疚しいわけでは……ただ、備前の宇喜多殿から、内々にそのような助言があったもので」
「宇喜多の……次郎兵衛とか申す者か」
「はい」
淀の方は、しばし考え込んだ。
「大老の盟の一員が、わざわざそのようなことを申し越すとは……何か、知っておるのやもしれぬな」
「それがしも、そう思わぬではございませぬ。ですが、文英清韓殿は、案ずるに及ばぬと」
淀の方は、静かに息を吐いた。
「ならば、良い。今更、大仏殿の落慶を延ばすわけにもいくまい。かかる細事に、いつまでも囚われておるわけにはいかぬ」
且元は、深く頭を下げながらも、胸の奥に、拭えぬ小さな棘が残るのを感じていた。
### 三
大坂城の廊下を辞しながら、且元は、独り言のように呟いた。
「次郎兵衛殿は、一体、何を見ておられるのか……」
次郎兵衛の書状には、それ以上の具体的な言葉はなかった。だが、あの用心深さは、ただの杞憂とは思えない。且元は、鐘銘の拓本の写しを、密かに手元に留め置くことにした。
(万一のことがあれば――これを、証しとして使えるやもしれぬ)
方広寺の鐘は、そのまま鋳造され続けた。大坂の人々は、まだ誰も、この鐘が、後にどれほどの騒ぎを呼ぶことになるか、知る由もなかった。
鐘銘の文言は、文英清韓の判断により、そのまま採用されることとなった。
「国家安康、君臣豊楽」。
片桐且元は胸に小さな棘を残しながらも、
淀殿は大事業の遅延を避けるため、深く追及することを選ばなかった。
大坂の人々は、誰もこの文言が後にどれほどの騒ぎを呼ぶかを知らない。
だが、佐和山の次郎兵衛だけは、その危うさを知っていた。
そして、あえて止めず、
あえて罠を踏ませ、
その難癖を公の場で退けるための布石を打った。
大坂はまだ静かだった。
しかし、鐘は鋳られ、文言は刻まれた。
その静けさの奥で、
豊臣と徳川の均衡は、次の局面へと確かに動き始めていた。




