第三十一章 罠と知りて
方広寺の大仏殿が完成へと近づくにつれ、
天下の空気は、静かに、しかし確実に張り詰めていった。
供養の名を借りた大仏再建は、
豊臣家の財を削ぐための一手にすぎない。
だが、その奥底には、もっと深い罠が潜んでいる。
鐘は鋳られ、銘文が刻まれる。
その一字一句が、いずれ天下を揺るがす火種となる――
史実で大坂の陣を招いた、あの「国家安康・君臣豊楽」。
次郎兵衛は、その危うさを誰よりも早く察しながら、
あえて罠を避けず、踏み抜く道を選ぼうとしていた。
それは、豊臣を守るための、最も危険で、最も細い綱渡りだった。
一
方広寺の大仏殿造営は、着々と進んでいた。慶長十九年の春を迎える頃には、大仏殿はほぼ完成し、あとは開眼供養を待つばかりとなっていた。
次郎兵衛のもとに、大坂からの便りが届いた。
「鐘の銘文、案が固まったとのことにございます」
達安が、書状の写しを差し出した。次郎兵衛は、その文言に目を落とした。
「――国家安康、君臣豊楽――」
脳裏に、史料で読んだ記憶が、鮮明に蘇った。この文言に、家康の諱「家康」の字を分断して置いたことに言いがかりをつけ、「豊臣を君として、家康を呪詛するものだ」と難癖をつける――それが、史実で大坂の陣の引き金となった、あの一件だった。
「次郎兵衛殿、どうされた。顔色が優れぬぞ」
「……戸川殿。この銘文、恐らく、家康の名を分断しているとして、あらぬ難癖をつけられましょう」
達安は、目を見開いた。
「そこまで、分かるのか」
次郎兵衛は、一瞬、言葉に詰まった。
### 二
「それがしの見立てにございます。ですが――」
次郎兵衛は、静かに、しかし確かな声で続けた。
「戸川殿。それがしは、この銘文を、今から差し止めることも、できましょう。大坂へ急ぎ使者を送り、今一度、文言を改めるよう進言すれば」
「ならば、そうすべきではないか」
「いえ。それがしは、あえて、そうはいたしませぬ」
達安が、怪訝な顔をした。
「なぜだ。危ういと分かっておるものを、なぜ止めぬ」
次郎兵衛は、しばし目を伏せた後、口を開いた。
「此度の一件、防げば防いだで、大御所は、いずれ別の難癖を探すだけにございます。何かに言いがかりをつけようとする意志そのものは、消えませぬ」
「では、どうするというのだ」
「この銘文を、あえて世に出させまする。そして、大御所がそれに難癖をつけてこられた時――信尹様と大老の盟の名において、公の場で、それを完膚なきまでに退けまする」
達安は、しばし絶句した。
「……わざと、罠に嵌まらせる、ということか」
「はい。これは、大御所御自身に、『根拠なき言いがかりで、序列上位の左大臣家を貶めようとした』という、消せぬ記録を残させることにございます」
### 三
「次郎兵衛殿……そなた、そこまでの策を、腹の内に隠しておったのか」
達安の声には、驚きと、微かな畏れが滲んでいた。次郎兵衛は、静かに首を振った。
「策と呼べるほど、立派なものではございませぬ。それがしとて、迷うております」
「迷う、とは」
「防げるものを、あえて防がぬ――これは、これまでそれがしが選んでこなかった道にございます。もし、この銘文が引き金となり、万が一にも兵乱にまで至れば、それがしの判断一つで、多くの命が失われることになりましょう」
次郎兵衛は、拳を握りしめた。
「ですが、大老の盟という盾がある今なら、大御所とて、闇雲に兵を動かすことはできませぬ。信尹様の関白としての立場、島津・上杉・前田の後ろ盾――これらが、暴発を防ぐ楔になりましょう。それがしは、その楔を信じて、あえてこの銘文を、通そうと思います」
達安は、長い沈黙の後、静かに頷いた。
「……分かった。そなたの覚悟、しかと見届けよう」
「戸川殿」
「案ずるな。そなた一人に、この重荷を背負わせはせぬ」
次郎兵衛は、深く頭を下げた。胸の内には、まだ拭えぬ迷いが残っていた。だが、もう後戻りはできない。
大仏殿の鐘は、そのまま鋳込まれることとなった。史実で戦の引き金となった文言が、今、この世界でも、静かに時を待ち始めていた。
鐘の銘文は、史実と同じ言葉を刻むこととなった。
「国家安康、君臣豊楽」。
家康の名を分断しているとして、
いずれ大御所が難癖をつけることは、ほぼ確実だった。
だが、次郎兵衛はそれを止めなかった。
止めれば、家康は別の難癖を探すだけ。
ならば、あえて罠を踏ませ、
その言いがかりを公の場で退け、
家康自身に「根拠なき非難」という汚名を刻ませる――
それが、次郎兵衛の選んだ道だった。
迷いはあった。
防げる火種をあえて残すことは、
これまでの彼が選ばなかった危険な策だった。
だが、大老の盟、信尹の関白としての権威、
島津・上杉・前田の後ろ盾――
これらが家康の暴発を抑える楔となる。
その楔を信じて、次郎兵衛は一歩を踏み出した。
鐘は鋳られた。
文言は刻まれた。
静かに、しかし確実に、次の局面が動き始めていた。




