↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
66/81

第三十一章 罠と知りて

方広寺の大仏殿が完成へと近づくにつれ、

天下の空気は、静かに、しかし確実に張り詰めていった。

供養の名を借りた大仏再建は、

豊臣家の財を削ぐための一手にすぎない。

だが、その奥底には、もっと深い罠が潜んでいる。

鐘は鋳られ、銘文が刻まれる。

その一字一句が、いずれ天下を揺るがす火種となる――

史実で大坂の陣を招いた、あの「国家安康・君臣豊楽」。

次郎兵衛は、その危うさを誰よりも早く察しながら、

あえて罠を避けず、踏み抜く道を選ぼうとしていた。

それは、豊臣を守るための、最も危険で、最も細い綱渡りだった。


 方広寺の大仏殿造営は、着々と進んでいた。慶長十九年の春を迎える頃には、大仏殿はほぼ完成し、あとは開眼供養を待つばかりとなっていた。


 次郎兵衛のもとに、大坂からの便りが届いた。


「鐘の銘文、案が固まったとのことにございます」


 達安が、書状の写しを差し出した。次郎兵衛は、その文言に目を落とした。


「――国家安康、君臣豊楽――」


 脳裏に、史料で読んだ記憶が、鮮明に蘇った。この文言に、家康の諱「家康」の字を分断して置いたことに言いがかりをつけ、「豊臣を君として、家康を呪詛するものだ」と難癖をつける――それが、史実で大坂の陣の引き金となった、あの一件だった。


「次郎兵衛殿、どうされた。顔色が優れぬぞ」


「……戸川殿。この銘文、恐らく、家康の名を分断しているとして、あらぬ難癖をつけられましょう」


 達安は、目を見開いた。


「そこまで、分かるのか」


 次郎兵衛は、一瞬、言葉に詰まった。


### 二


「それがしの見立てにございます。ですが――」


 次郎兵衛は、静かに、しかし確かな声で続けた。


「戸川殿。それがしは、この銘文を、今から差し止めることも、できましょう。大坂へ急ぎ使者を送り、今一度、文言を改めるよう進言すれば」


「ならば、そうすべきではないか」


「いえ。それがしは、あえて、そうはいたしませぬ」


 達安が、怪訝な顔をした。


「なぜだ。危ういと分かっておるものを、なぜ止めぬ」


 次郎兵衛は、しばし目を伏せた後、口を開いた。


「此度の一件、防げば防いだで、大御所は、いずれ別の難癖を探すだけにございます。何かに言いがかりをつけようとする意志そのものは、消えませぬ」


「では、どうするというのだ」


「この銘文を、あえて世に出させまする。そして、大御所がそれに難癖をつけてこられた時――信尹様と大老の盟の名において、公の場で、それを完膚なきまでに退けまする」


 達安は、しばし絶句した。


「……わざと、罠に嵌まらせる、ということか」


「はい。これは、大御所御自身に、『根拠なき言いがかりで、序列上位の左大臣家を貶めようとした』という、消せぬ記録を残させることにございます」


### 三


「次郎兵衛殿……そなた、そこまでの策を、腹の内に隠しておったのか」


 達安の声には、驚きと、微かな畏れが滲んでいた。次郎兵衛は、静かに首を振った。


「策と呼べるほど、立派なものではございませぬ。それがしとて、迷うております」


「迷う、とは」


「防げるものを、あえて防がぬ――これは、これまでそれがしが選んでこなかった道にございます。もし、この銘文が引き金となり、万が一にも兵乱にまで至れば、それがしの判断一つで、多くの命が失われることになりましょう」


 次郎兵衛は、拳を握りしめた。


「ですが、大老の盟という盾がある今なら、大御所とて、闇雲に兵を動かすことはできませぬ。信尹様の関白としての立場、島津・上杉・前田の後ろ盾――これらが、暴発を防ぐ楔になりましょう。それがしは、その楔を信じて、あえてこの銘文を、通そうと思います」


 達安は、長い沈黙の後、静かに頷いた。


「……分かった。そなたの覚悟、しかと見届けよう」


「戸川殿」


「案ずるな。そなた一人に、この重荷を背負わせはせぬ」


 次郎兵衛は、深く頭を下げた。胸の内には、まだ拭えぬ迷いが残っていた。だが、もう後戻りはできない。


 大仏殿の鐘は、そのまま鋳込まれることとなった。史実で戦の引き金となった文言が、今、この世界でも、静かに時を待ち始めていた。



鐘の銘文は、史実と同じ言葉を刻むこととなった。

「国家安康、君臣豊楽」。

家康の名を分断しているとして、

いずれ大御所が難癖をつけることは、ほぼ確実だった。

だが、次郎兵衛はそれを止めなかった。

止めれば、家康は別の難癖を探すだけ。

ならば、あえて罠を踏ませ、

その言いがかりを公の場で退け、

家康自身に「根拠なき非難」という汚名を刻ませる――

それが、次郎兵衛の選んだ道だった。

迷いはあった。

防げる火種をあえて残すことは、

これまでの彼が選ばなかった危険な策だった。

だが、大老の盟、信尹の関白としての権威、

島津・上杉・前田の後ろ盾――

これらが家康の暴発を抑える楔となる。

その楔を信じて、次郎兵衛は一歩を踏み出した。

鐘は鋳られた。

文言は刻まれた。

静かに、しかし確実に、次の局面が動き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。