第五部 鐘銘の影 第二十九章 大御所
慶長十年。
天下は、静かに、しかし確実に形を変えようとしていた。
将軍職の譲渡という一見穏やかな儀礼の裏で、権力の重心は京でも江戸でもなく、駿府へと移りつつある。
豊臣と徳川――二つの権威が並び立つこの異形の時代において、序列の乱れはただの礼儀の問題ではない。
それは、政道そのものを揺るがす亀裂となる。
秀頼の上洛を巡る一件は、その亀裂の最初の兆しにすぎなかった。
大御所・家康が動き始める。
その一挙手一投足が、豊臣家の未来を左右する。
次郎兵衛は、迫り来る嵐の気配を、誰よりも早く嗅ぎ取っていた。
一
慶長十年、卯月。京から届いた報せに、佐和山城内が、にわかに色めき立った。
「家康、将軍職を辞し、子の秀忠に譲るとのことだ」
達安の声に、次郎兵衛は静かに頷いた。
「来ましたか」
「随分と、落ち着いておるな」
「これぐらいのこと、いずれ起こるであろうと、腹積もりはしておりました。ですが――」
次郎兵衛の表情に、翳りが差した。
「将軍職を譲ってなお、家康は駿府に留まり、大御所として、なお天下の実権を握り続けるはず。将軍という『職』は秀忠に渡っても、力そのものは、渡らぬのです」
達安が、眉をひそめた。
「名ばかりの譲位、ということか」
「はい。むしろ厄介なのは、これから先にございます。将軍という肩書に縛られぬ大御所という立場は、いかなる無理も通しやすい、危うい自由を持っておりまする」
次郎兵衛の脳裏には、この後、家康が駿府から発するであろう数々の策謀――その筆頭にある、方広寺大仏殿を巡る一件への、漠とした警戒が、既に芽生えつつあった。
二
程なくして、京より、さらに厄介な話が佐和山に届いた。
「新将軍・秀忠様への祝賀のため、秀頼様御自らが上洛し、御礼を述べられるべきである――大御所様は、そのようにお考えとの由にございます」
この報せは秀家の耳にも届き、次郎兵衛は御前に急ぎ、事情を訴えた。
(この一件、揉めるであろうことは、容易に見当がつく。左大臣たる秀頼様と、それより低い官位の秀忠様――序列は、既に逆転している)
「殿。これは、揉めるは必定の話にございます。左大臣たる秀頼様が、御自ら足を運び、位の低い将軍へ拝礼するなど、朝廷の秩序そのものを覆すことになりまする」
「なぜだ。将軍への祝賀の礼を欠けば、無用な角を立てることになろう」
「されど、序列を軽んじれば、信尹様が命懸けで守られたものを、我らの手で崩すことになりまする」
秀家は、深く息を吐いた。
「では、どうする。祝意を示さぬわけにもいくまい」
「使者を立てまする。秀頼様の御名代として、しかるべき重臣が祝賀に赴く――それで十分にございます。上洛は、無用」
三
この提案は、大老の盟を通じて速やかに各家へ伝えられ、島津・上杉・前田がこぞってこれを支持した。信尹もまた、朝廷の立場から、内々に同様の見解を示した。
結果、秀頼の上洛は見送られ、名代による祝賀という形で、この一件は収まった。
だが、佐和山に戻った次郎兵衛の胸には、安堵よりも、深い緊張が残っていた。
「達安殿。此度は、何とか凌ぎました。ですが、これは、ほんの小手調べに過ぎませぬ」
「小手調べ、とは大仰な」
「大御所という、将軍の座からも自由な立場を得た家康が、次に何を仕掛けてくるか――それがしには、薄々、見当がついております」
「何を、企んでおるというのだ」
次郎兵衛は、遠く駿府の方角を見やった。
「豊臣家の財を、これ以上ないほど大きな形で、そして誰にも咎められぬ形で、削ぎ落とす一手にございます」
夕暮れの空に、微かな不穏の色が滲んでいた。将軍職の世襲という、動かしようのない現実の裏で、次郎兵衛たちの、新たな戦いが静かに始まろうとしていた。
秀頼の上洛は回避された。
大老の盟は機能し、朝廷の序列は守られた。
だが、それはただ一つの火種を消したに過ぎない。
家康は将軍という「形」から解き放たれ、大御所として「力」だけを握った。
その自由は、豊臣家にとって脅威であり、同時に、これまでとは異なる形の政治戦を強いる。
次郎兵衛は知っている。
家康は、必ず次の一手を打つ。
それは、豊臣家の財と権威を、誰にも咎められぬ形で削ぎ落とす――
そんな、巨大で、静かで、そして恐ろしく巧妙な一手だ。
嵐はまだ遠い。
だが、風はすでに吹き始めている。




