第二十八章 次なる盟約
将軍宣下という大きな節目を越え、天下は新たな形を取り始めていた。
豊臣と徳川――二つの権威が並び立つこの異形の政道は、もはや誰の目にも隠しようがない。
だが、序列が整ったからといって、力の流れまで変わるわけではない。
大御所として駿府に座した家康は、将軍という「形」から解き放たれ、より自由に、より深く天下へ手を伸ばすことができる。
佐和山に集う祝いの使者たちの賑わいの裏で、次郎兵衛は静かに、しかし確かな危機の気配を感じ取っていた。
楔は打たれた。
だが、それが抜かれぬ保証は、どこにもない。
一
将軍宣下の儀を終えて間もなく、佐和山城に、大老の盟に連なる家々からの祝いの使者が、次々と訪れた。
達安が、その様子を眺めながら、感慨深げに言った。
「島津、上杉、前田、そして瀬戸内の両家……皆、此度の一件を、我らの手柄のように喜んでおる」
「手柄は、我らだけのものではございませぬ。信尹様が、関所番の役目を、見事に果たしてくださったからこそ」
次郎兵衛は、そう答えながらも、胸の内には複雑な思いがあった。
(左大臣・秀頼様、右大臣・将軍家康様。朝廷の序列では、確かに豊臣が上に立った。だが――)
次郎兵衛は、絵図の上に広げられたままの、日ノ本の地図を見つめた。将軍という職は、武家の指揮権そのものだ。序列がどうあれ、諸大名を実際に動かす力は、なお家康の手にある。
二
秀家の御前にて、次郎兵衛は率直にこの複雑な胸中を述べた。
「殿。此度のこと、大老の盟にとっては、確かな勝利にございます。ですが――」
「分かっておる。将軍という実の力までは、我らも動かせなんだ、ということだろう」
次郎兵衛は、深く頷いた。
「左様にございます。序列の上では、秀頼様が上に立たれました。されど、諸大名を動かす軍事の力、天下普請を号令する力――それらは、なお家康様の手の内にございます」
「では、この盟は、無駄であったと申すか」
「いえ、決して」
次郎兵衛は、はっきりと首を振った。
「序列と、実の力が、これほどはっきりと分かれて立っていることこそが、この盟の値打ちにございます。家康様が、たとえ将軍として如何なる号令を発せられようとも、それが帝の御意志、ひいては秀頼様の御位に背くものであれば、大老の盟が、いつでも異を唱えられる。これは、目には見えぬ楔にございます」
秀家は、しばし黙考し、やがて静かに頷いた。
「なるほどな。力で押し返すのではなく、抜けぬ楔を打ち込んでおく、ということか」
「仰る通りにございます」
三
その夜、次郎兵衛は達安と共に、佐和山城の高台から、遠く西の空を見つめていた。
「大老の盟、瀬戸の盟、関白の一件、そして今度の左大臣叙任……次郎兵衛殿、そなたが積み重ねてきたものは、もはや宇喜多一家だけのものではないな」
「はい。ですが――」
次郎兵衛の表情には、静かな緊張が残っていた。
「これらは全て、楔に過ぎませぬ。楔は、打ち込んだだけでは意味を成しませぬ。抜かれぬよう、常に見張り、締め直し続けねばなりませぬ」
「気の抜けぬことだ」
「はい。将軍職は、いずれ家康様から御子・秀忠様へと受け継がれましょう。徳川の天下は、代を重ねるごとに、揺るぎないものになっていく。我らが打ち込んだ楔が、その先も抜かれずにいられるか――それは、まだ誰にも分かりませぬ」
達安は、次郎兵衛の横顔を、しばし見つめた。
「そなたは、いつも、勝った後の心配ばかりしておるな」
「戸川殿。勝ったと思うた瞬間こそが、一番危ういのだと、それがしは、ずっとそう思うております」
夜風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。
史実で徳川一強となったはずの天下に、豊臣の楔が、確かに打ち込まれた。だがそれは、終わりではなく、次郎兵衛にとって、また新たな警戒の始まりに過ぎなかった。
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*(第四部・完)*
大老の盟は機能し、瀬戸の諸家も呼応し、豊臣の序列は朝廷の上に確かに刻まれた。
左大臣・秀頼、右大臣・家康――この並びは、史実の流れを大きく変える一手であり、豊臣の権威を天下に示す楔となった。
だが、それは勝利ではない。
むしろ、ここからが本当の戦いだった。
将軍職は秀忠へと受け継がれ、徳川の天下は代を重ねるごとに盤石となる。
家康は大御所として、誰にも縛られぬ立場から、豊臣家の財と権威を静かに削ぐ一手を準備している。
楔は打ち込んだだけでは意味を成さない。
抜かれぬよう締め続け、見張り続けねばならない。
次郎兵衛は知っていた。
勝ったと思うた瞬間こそが、一番危うい。
第二十八章はここで幕を閉じる。
だが、豊臣と徳川の均衡を巡る戦いは、まだ始まったばかりだった。




