第二十七章 将軍宣下
瀬戸内の盟まで整え、大老の盟の陣容がほぼ固まったところで、この章でついに、動かしようのない現実――家康の将軍宣下そのものと向き合う時が来ます。次郎兵衛が選んだのは、宣下そのものを止めることではなく、関白・信尹という「関所」を通じて、条件を織り込むという搦め手です。
この章の見どころは、次郎兵衛が単に「将軍職を止められない」と諦めるのではなく、「宣下は認めるが、その代償として秀頼の官位を家康より上に置く」という、逆転の発想に踏み込むところです。将軍という武家の頂点と、朝廷の序列という、二つの異なる物差しを意図的にねじれさせる、この物語でも屈指の大胆な一手が描かれます。
一
慶長八年、正月。次郎兵衛のもとに、京から急報が届いた。
「家康様、ついに征夷大将軍の宣下を、正式に奏請されたとのことにございます」
達安が、緊張した面持ちで告げた。次郎兵衛は、静かに頷いた。
「来るべきものが、来ましたな」
「これは、止められぬのだろう」
「はい。将軍宣下そのものを拒めば、朝廷と家康様の全面対立を招きましょう。それは、帝にとっても、我らにとっても、望むところではございませぬ」
次郎兵衛は、絵図の代わりに、一枚の系図を広げた。関白・近衛信尹の名が、そこにあった。
「ですが――将軍宣下は、必ず、関白様を通じた奏請の手続きを経ねばなりませぬ。信尹様は、いわば、この一件の関所番にございます」
「関所番、か」
「宣下そのものを止めることはできずとも、その手続きの中に、条件を織り込んでいただくことは叶いましょう」
二
次郎兵衛は、秀家と共に、内々に信尹のもとを訪れた。
「関白様。此度の将軍宣下の一件、我らも、お止めするつもりはございませぬ」
「ほう。それは、殊勝な申しようだな」
信尹は、興味深げに次郎兵衛を見た。
「ただ、一つだけ、お願いがございます。将軍宣下と時を同じくして、秀頼様を左大臣に叙していただきたいのです。これは家康様の御許しを要する話ではございませぬ。あくまで、帝の御意志として」
信尹は、僅かに目を見開いた。
「左大臣、か……。家康が右大臣に就くならば、秀頼様の方が、位は上ということになるな」
「仰る通りにございます」
「家康が、それに異を唱えたら、どうする」
「異を唱えれば、将軍宣下そのものの正統性に、傷がつきましょう。帝の御意志に逆らう将軍など、誰も望みませぬ」
信尹は、微かに笑った。
「詭弁よな。だが……嫌いではない」
「関白様」
「良かろう。将軍宣下は、武家の頂点を認めるもの。だが、帝の御心一つで、秀頼様の御位をいかに定めるかまでは、口を挟んでも障りはあるまい。この一件、某が引き受けよう」
三
将軍宣下の儀は、滞りなく執り行われた。徳川家康は、正式に征夷大将軍に任じられた。
だが、その宣下に添えられた帝からの内々のお言葉により、秀頼は左大臣に叙され、右大臣となった家康よりも、朝廷の序列においては上位に立つこととなった。武家の実権は、家康が握ったままである。だが、儀礼の上では、なお豊臣家が徳川家の上にある――史実にはなかった、この一点が、次郎兵衛たちの盟の、何よりの証となった。
佐和山に届いた報せを前に、達安が唸った。
「将軍宣下を止められはせなんだが……随分と、割の合う代償を引き出したものだな」
「はい。ですが」
次郎兵衛の表情は、晴れやかではなかった。
「将軍職は、いずれ家康様の御子・秀忠様へと受け継がれましょう。徳川の天下は、これで、揺るがぬ形を得たに等しい。我らが守れたのは、豊臣家の――そして大老の盟の、当面の立つ瀬に過ぎませぬ」
秀家が、静かに口を開いた。
「当面、で良いのだ、次郎兵衛。全てを一度に変えることなどできぬ。そなたが、いつも申しておることではないか」
次郎兵衛は、深く頭を下げた。
「仰る通りにございます」
史実で徳川一強となったはずの天下に、確かな楔が打ち込まれていた。だが同時に、次郎兵衛の胸には、これが決して終わりではないという、静かな予感も残っていた。
この章で一番書きたかったのは、信尹の「詭弁よな。だが……嫌いではない」という一言です。次郎兵衛の提案は、確かに屁理屈すれすれの理屈です。ですが第三部で共に約束を守り抜いた信尹だからこそ、この詭弁に一定の理を見出し、乗ってくれる――これまで積み重ねてきた信頼関係が、ここでも生きてくる場面として書きました。
「左大臣・秀頼様、右大臣・将軍家康様。朝廷の序列では、確かに豊臣が上に立った」という達成感の直後に、「だが――」と次郎兵衛の懸念を続けたのは、この物語が常に「勝利のその先」を見据える構造になっているからです。序列上の勝利と、実際の武力・統治権という現実との乖離こそが、次の第二十八章「次なる盟約」、そしてその先の物語全体を貫く緊張の種になります。
「史実で徳川一強となったはずの天下に、確かな楔が打ち込まれていた」という一文は、この物語のタイトルにも通じる「楔」というモチーフの、初めての明確な登場でもあります。この楔が、以降の第五部・第六部を通じて何度も形を変えながら使われていくことになる、大事な一節として書きました。




