第二十六章 瀬戸の盟
島津・上杉という縦の繋がりを固めた次郎兵衛が、この章で目を向けるのは、宇喜多家自身の足元――地理的な弱さです。備前・備中は、東の徳川、西の旗幟不明な毛利に挟まれた、脆い位置にあります。次郎兵衛が着目するのは、その毛利自身が、戦の混乱に乗じて四国へ手を伸ばし、蜂須賀・生駒という、本来は同じ西軍に与しながらも被害を受けた家々を作り出していたという、史実の因縁です。
これまでの調略が「家康への牽制」を目的としていたのに対し、この章の瀬戸内工作は、大老の盟そのものの、そして宇喜多家自身の「背後の安全」を築くための一手です。次郎兵衛の視線が、初めて政治的な駆け引きから、地政学的な布石へと広がる章でもあります。
一
次郎兵衛は、瀬戸内海の地図を前に、達安に向き直った。
「毛利を、完全に敵にはできませぬ。ですが、毛利にも、我らに強く出られぬ弱みがございます」
「弱み、とは」
「阿波の蜂須賀殿、讃岐の生駒殿にございます。両家とも、西軍に与したとはいえ、あくまで消極的なもの。にもかかわらず、毛利は、豊臣政権の名を借りて、両家の所領に手を伸ばしました」
達安は、思い出したように頷いた。
「ああ……戦の最中、毛利が四国に兵を出しておったな。伊予の加藤殿の所領にも、村上水軍を差し向けたとか」
「はい。あれは、毛利による火事場泥棒に等しきものにございました。蜂須賀殿、生駒殿にとって、毛利は、家康様以上に、腹に据えかねる相手のはず」
次郎兵衛は、地図の上で、瀬戸内海を指でなぞった。
「この両家と誼を結べば、毛利は、東の我らと、南の四国衆とに、挟まれる形になりまする」
二
次郎兵衛は、まず阿波の蜂須賀家政のもとへ、書状を送った。返答は、思いのほか早く、そして熱を帯びたものだった。
「――かの一件、今もって腸の煮え返る思いにござる。某は豊臣家への忠義から、心ならずも西軍に加わったに過ぎぬ。それを良いことに、毛利は我が所領を欲しいままにせんとした。到底、忘れられるものではない」
次郎兵衛は、達安と顔を見合わせた。
「これは……存外、話が早いやもしれませぬ」
程なくして、讃岐の生駒親正からも、同様の返答が届いた。
「――蜂須賀殿と、同じ思いにござる。此度、宇喜多殿が、毛利への牽制をお考えとあらば、喜んで力添え致そう」
達安が、感心したように言った。
「島津、上杉に続き、瀬戸内の両家も、確かな手応えありか」
「はい。ですがこれは、あくまで毛利を『動けなくする』ための盟。蜂須賀殿、生駒殿を、戦に巻き込むつもりはございませぬ」
「では、何を頼む」
「水軍にございます。瀬戸内の海路を、我らのために開いていただく。それだけで、毛利は、陸だけでなく海からも見られておると悟りましょう」
三
次郎兵衛は、秀家にこの首尾を報告した。
「殿。これにて、島津、上杉、前田、そして瀬戸内の蜂須賀・生駒――五つの家が、宇喜多と誼を結んだことになりまする」
「毛利は、いよいよ孤立するな」
「はい。ですが、孤立させることが目的ではございませぬ。毛利が、これ以上家康様に近づかぬよう、そっと押しとどめる――それで十分にございます」
秀家は、深く頷いた。
「次郎兵衛、そなたの手並み、見事なものよ」
「勿体なきお言葉。ですが――」
次郎兵衛の表情に、僅かな翳りが差した。
「これにて、盟の形は整いましてございます」
次郎兵衛は、深く一礼した。だがその内心では、別の思いが渦巻いていた。
(将軍宣下――これだけは、もはや誰にも止められぬ。俺たちにできるのは、それが訪れた後、この盟をどう活かすかだけだ)
瀬戸内の海風が、遠く岡山にまで届くような、そんな心地がした。
地理の弱さを、人の繋がりで補う――次郎兵衛の戦い方は、ここでも変わらず貫かれていた。
この章で書きたかったのは、毛利による四国への火事場泥棒的な振る舞いという、既に存在していた史実の火種を、次郎兵衛たちがそのまま活用するという構図です。新たに敵を作るのではなく、既にそこにある恨みに、そっと寄り添う――これもまた、次郎兵衛が繰り返してきた「対立の構造そのものを利用する」という発想の延長線上にあります。
蜂須賀・生駒に、戦ではなく水軍という限定的な協力だけを求めた点も、意識して書きました。「蜂須賀殿、生駒殿を、戦に巻き込むつもりはございませぬ」という一言には、大老の盟が軍事同盟ではなく、あくまで牽制のための緩やかな連携であるという、この物語全体の一貫した性格を、改めて示す狙いがあります。
秀家に「これにて、盟の形は整いましてございます」と報告しながらも、次郎兵衛が内心で「将軍宣下――これだけは、もはや誰にも止められぬ」と静かに身構える場面で章を締めることで、次の第二十七章「将軍宣下」への緊張感を、そのまま持ち越しています。




