第二十五章 毛利の亀裂
島津・上杉という、これまでの二軒はいずれも「一つの意志を持つ家」として交渉できました。ですがこの章で次郎兵衛が向き合う毛利家は、そもそも一枚岩ではありません。輝元の意志と、既に家康と誼を通じている吉川広家の思惑――家の内側に走る亀裂そのものが、交渉の対象になります。
これまで「相手を口説き落とす」ことに主眼を置いてきた次郎兵衛が、この章で初めて「口説き落とすことを諦める」という判断を下します。全ての家を大老の盟に引き入れることに固執しない、次郎兵衛の現実主義がもっとも明確な形で表れる章です。
一
毛利家への使者は、思いのほか手間取っていた。
「返答が、要領を得ぬのだ」
達安が、届いた書状を次郎兵衛に差し出した。表向きは「大老の盟、しかと承った」とあるが、具体的な言質は何一つ記されていない。
「これは……歓迎とも、拒絶とも取れませぬな」
「毛利は、いつもこうなのか」
「いえ。これまでの島津殿、上杉殿とは、明らかに様子が違いまする」
次郎兵衛は、書状を幾度も読み返した。文言は丁重だが、輝元自身の言葉というより、誰かが慎重に言葉を選んで書いたような、そんな硬さがあった。
(何かが、毛利家中で起きている)
二
程なくして、達安の伝手を通じ、思わぬ話が次郎兵衛の耳に届いた。
「吉川広家殿が、既に家康様の御側近と、幾度も文をやり取りしておるそうだ」
「関ヶ原の折から、にございますか」
「そうらしい。広家殿は、毛利本家を戦から遠ざけ、家康様との衝突を避けることに、心血を注いでこられたとか」
次郎兵衛は、腕を組んだ。史実であれば、広家のこの内通が、毛利家の所領を大幅に削られる結果を招いたはずだった。だがこの世界では、関ヶ原そのものが「勝者なき決着」に終わったため、広家の内通は、罰されることも、報われることもないまま、宙に浮いている。
「広家殿にとっては、此度の大老の盟は、迷惑この上ないものにございましょう。家康様との誼を、これ以上拗らせたくないはず」
「輝元様御自身は、どうお考えなのだろうな」
「そこにございます。輝元様が、本当に家中を掌握しておられるのか――それがしには、そちらの方が気にかかりまする」
三
次郎兵衛は、佐和山へ戻り、秀家と達安の前で、率直に己の見立てを述べた。
「毛利家を、此度の盟に引き入れることは、恐らく叶いませぬ」
秀家が、眉をひそめた。
「広家の一存で、そこまで動かされてしまうものか」
「毛利は、既に家中が割れておりまする。輝元様が強く出られぬ限り、広家殿の慎重論が、家中の実質を握り続けましょう」
次郎兵衛は、絵図の上の「毛利」の文字を、そっと指でなぞった。
「ですが――これは、必ずしも悪いことばかりではございませぬ」
「どういうことだ」
「毛利を、我らの盟に引き入れることは諦めまする。その代わり、毛利が完全に家康様の側に与することもない――そういう、宙ぶらりんの位置に留め置くだけで、十分にございます」
達安が、感心したように頷いた。
「敵にしないだけで良い、というわけか」
「はい。大老五家のうち、四家が結束すれば、それだけで家康様への十分な牽制になりましょう。毛利には、無理に旗幟を明らかにさせぬまま、そっとしておくのが得策かと」
秀家は、静かに息を吐いた。
「良かろう。次郎兵衛、そなたの見立てに従おう」
次郎兵衛は、絵図を丸めながら、胸の内で呟いた。
(島津、上杉、そして前田――三つの家が、我らと共にある。毛利は動かぬ。だが、それで良い)
大老の盟は、完全な形ではないまま、それでも確かな輪郭を持ち始めていた。残るは、地理の上で最も心許ない、宇喜多自身の足場を固めることだった。
この章で一番書きたかったのは、次郎兵衛が「負け」を認める場面です。「毛利家を、此度の盟に引き入れることは、恐らく叶いませぬ」という一言は、これまで数々の困難を構造ごと変えることで切り抜けてきた次郎兵衛にとって、珍しい撤退の判断です。ですがすぐに「毛利が完全に家康様の側に与することもない――そういう、宙ぶらりんの位置に留め置くだけで、十分」と続けることで、これが敗北ではなく、目標の再設定に過ぎないことを示しました。全てを勝ち取ろうとせず、最低限の成果で満足する柔軟さもまた、次郎兵衛の強さの一部だと思います。
達安の「敵にしないだけで良い、というわけか」という念押しには、この物語の一貫した価値観——完全な勝利よりも、血を流さない均衡を優先する——を、改めて言語化させる狙いを込めました。
「大老の盟は、完全な形ではないまま、それでも確かな輪郭を持ち始めていた」という結びで、次の第二十六章「瀬戸の盟」へ、宇喜多自身の地政学的な弱さを補う、新たな一手への繋がりを持たせています。




