第二十三章 義弘の一手
第二十二章で調略の順序を定めた次郎兵衛が、この章でまず動くのは、既に関白工作で一度轡を並べた盟友――島津義弘です。予想通り、義弘からの返答は速く、力強いものでした。ですがこの章が本当に描きたいのは、快諾そのものよりも、その奥にある義弘の複雑な胸中です。
関ヶ原で「勝敗はつかなんだ」という、この世界特有の中途半端な決着を、島津という武を誇る家がどう受け止めているのか。次郎兵衛が最初に得る同志が、単なる政治的打算だけでなく、武門としての矜持の置き所を探していた、という側面を丁寧に描く章です。
一
薩摩へ遣わした使者が戻ってきたのは、思いのほか早いことだった。
次郎兵衛は、届けられた書状を、逸る気持ちを抑えながら開いた。義弘自筆と見える、力強い筆致がそこにはあった。
「――大老の盟、まことに大慶に存ずる。此度の一件、義弘、一も二もなく応じ申す」
達安が、傍らから覗き込んだ。
「随分と、話が早いな」
「義弘様にとっても、これは好機にございましょう」
次郎兵衛は、書状の続きに目を落とした。関ヶ原での、あの長い一日――勝敗の決せぬまま日が暮れ、双方が兵を退いたあの戦のことが、義弘自身の言葉で綴られていた。
「――某、あの日、西軍として槍を振るいながらも、遂に勝ちを拾えなんだ。さりとて、家中の者どもは、多くが無事に薩摩へ帰り着いた。これを、幸いと言うべきか、不甲斐なしと言うべきか、未だに己の中で、答えが出ぬままにござる」
(義弘様は、あの決着のつかなかった一日を、まだ心の中で持て余しておられる)
次郎兵衛は、静かに書状を閉じた。
二
数日後、義弘の名代として、薩摩から一人の重臣が佐和山を訪れた。
「次郎兵衛殿。単刀直入に申し上げる。我が殿は、此度の盟に、全霊を賭けて臨む所存にござる」
「有り難きお言葉。ですが、義弘様には、一つ、お尋ねしたきことが」
「何なりと」
「此度の盟は、家康様への牽制を主眼とするもの。されど島津家にとっては、それ以上に、関ヶ原で西軍に与しながら、勝敗を決めきれなかったことへの、御自身の中の割り切れなさを晴らす機会、という側面もございましょう。義弘様が真に望んでおられるのは、如何なることにございましょうか」
名代は、しばし黙し、やがて重々しく口を開いた。
「我が殿の望みは、ただ一つ。島津の武名を、再び正しく、天下に示すことにござる。あの日、勝敗はつかなんだ。じゃが、それで終わりというわけにはいかぬ。此度の盟が実を結べば、それは戦での決着ではなく、義によって天下を動かした、という証になろう」
次郎兵衛は、深く頷いた。
「義弘様のお心、しかと受け取りました。この盟、必ずや、島津家の武名にふさわしいものに致しまする」
「ときに、次郎兵衛殿」
「はい」
「我が殿より、一つ、言伝がござる。――毛利には、くれぐれも気をつけられよ、と」
次郎兵衛の眉が、僅かに動いた。
「義弘様は、何か、御存じなのですか」
「関ヶ原の折、毛利の陣が、ついに動かなんだこと――あれは、単なる日和見ではない、との噂が、我が家中にも届いておる。吉川殿と家康様との間に、何やら密約があった、とも」
三
名代を見送った後、次郎兵衛は達安と共に、しばし言葉もなく座り込んでいた。
「島津殿の話、聞いたか」
「ああ。毛利の一件、やはり只事ではなさそうだ」
「これで、島津は確かに我らの側についた。次は、上杉にございます」
次郎兵衛は、絵図の上の「上杉」の文字に、指先を置いた。
「兼続殿は、義に篤い御方と聞き及びます。ですが、会津征伐という深い遺恨を抱えたまま、迂闊に近づけば、かえって疑念を招きかねませぬ」
「どう動く」
「上杉家が、此度の和議の埒外に置かれておること――そこに、まず光を当てまする」
次郎兵衛の胸には、義弘という最初の同志を得た手応えと、これから待ち受ける、より困難な交渉への緊張が、同時に去来していた。
大老の盟は、確かに一歩、動き出していた。
この章で一番意識したのは、義弘の動機を、史実の「敵中突破の武勇伝」ではなく、「勝敗のつかなかった一日への、割り切れなさ」に置き換えたことです。この物語の関ヶ原は、東軍が日暮れとともに退いた、いわば痛み分けの戦でした。だからこそ義弘の胸に残るのは、九死に一生を得た経験の記憶ではなく、「勝ちを拾えなんだ」という、地味だが根の深いわだかまりです。「義によって天下を動かした、という証になろう」という義弘の言葉には、武功ではなく大義によって己の武名を示したいという、この世界だけの新しい動機付けを込めました。
毛利への警戒を、島津の名代の口から語らせたのも、狙いがあります。次郎兵衛たちがまだ気づいていない毛利家中の分裂を、外部の人間が先に察知しているという構図により、次の第二十四章・第二十五章への伏線が、より自然な形で滑り込みます。
「島津は確かに我らの側についた。次は、上杉にございます」という結びで、大老の盟が一つずつ、着実に形を成していく手応えを示しつつ、次の相手・上杉家との交渉に伴う難しさへの緊張感を持ち越しました。




