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第二十一章 関白宣下

第二十章で誓紙という「形」を整えた次郎兵衛が、この最終章でついに、答え合わせの時を迎えます。半月余りの沈黙という、次郎兵衛にとって最も苦しい「待つだけの時間」から始まり、信尹の決断、そして帝御自らの異例の御沙汰へと、事態が一気に動いていきます。これまで次郎兵衛が働きかけてきたのは、あくまで大名や公家個々の思惑でした。ですがこの章の核心にあるのは、後陽成天皇という、これまで一度も直接描かれてこなかった存在の意志です。朝廷工作という、次郎兵衛にとって最も不慣れな戦場の、最終的な決着がどう下されるのか——第三部全体の集大成となる章です。


 年が明け、慶長六年の正月を迎えた。


 次郎兵衛は、佐和山城で、京からの報せを待ち続けていた。誓紙が近衛信尹のもとへ届いてから、既に半月余りが過ぎている。


「まだ、何も」


 達安の言葉に、次郎兵衛は静かに頷いた。焦りが胸を焦がすが、ここから先は、


「戸川殿。信尹様は、決して軽々に動かれる御方ではございませぬ。この沈黙もまた、熟慮の証と信じるほかございませぬ」


 そう口にしながらも、次郎兵衛の内心は、決して穏やかではなかった。もし信尹が誓紙を拒み、家康方の九条家擁立がそのまま進めば――これまで積み上げてきた朝廷工作は、全て水泡に帰す。


 そして、正月も半ばを過ぎたある日、ついに京より、急使が佐和山城へと駆け込んできた。


「申し上げます! 近衛信尹様、誓紙をお納めになり、御動きを決せられたとの由!」


 次郎兵衛は、思わず立ち上がった。


「して、その御動きとは」


「信尹様御自ら、御所へ参内。かねてよりの御自身の関白就任を、正式に願い出られたとのこと。加えて、一条内基様も、これに賛意を示されたご様子にございます」


 次郎兵衛は、深く息を吐いた。二つの糸、その両方が、ついに動いたのだ。



 だが、事はそれだけでは終わらなかった。


「家康方も、九条兼孝様への就任を、なお強く働きかけておられる由。御所内では、両論が激しく対立しておるとのこと」


 次郎兵衛は、拳を握りしめた。ここからが、本当の正念場だった。


 数日後、さらなる報せが届いた。後陽成天皇御自らが、この一件について、異例の御沙汰を下されたという。


「――関白の任、軽々に定むべきにあらず。諸家の意を尽くし、朝議をもって定めよ」


 その言葉に、次郎兵衛は、思わず息を呑んだ。


(帝御自らが、即断を避けられた……!)


 これは、家康にとって大きな誤算だったはずだ。金と圧力で押し切ろうとした九条家擁立が、天皇自らの「慎重に議すべし」という一言によって、押し留められたのだ。


 朝議――五摂家をはじめとする公家衆による合議の場が、急遽開かれることとなった。



 朝議の詳細は、次郎兵衛たちのもとには、断片的にしか伝わってこなかった。だが、数日にわたる議論の末、ついに結論が下されたという報せが、京から佐和山城へと届いた。


「関白宣下、近衛信尹様に決定――!」


 その報せを聞いた瞬間、佐和山城の一室に、大きなどよめきが起こった。


「やった、やったぞ次郎兵衛殿!」


 達安が、次郎兵衛の肩を、強く叩いた。次郎兵衛は、しばし言葉を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。


(成った……本当に、成ったのだ)


 史実であれば、九条兼孝が関白に就き、豊臣家の家格は、二度と戻らぬ道を辿ったはずだった。だが、この世界では、信尹という、かつて豊臣家に煮え湯を飲まされた人物が関白となり、しかも誓紙という形で、いずれ秀頼へと関白位を返す道筋までが、確かに残された。


 秀家が、静かに次郎兵衛に歩み寄った。


「次郎兵衛。そなたの働き、まことに大儀であった」


「殿……いえ、これは、それがし一人の功ではございませぬ。豪姫様、まつ様、淀の方様、そして戸川殿をはじめとする、皆々様の御力があってこそにございます」


 次郎兵衛は、深く頭を垂れながら、込み上げる感慨を、静かに噛み締めていた。


 史実の関ヶ原から、大きく道を違えたこの世界。戦場での均衡から始まり、和議、そして朝廷における関白位の攻防――全てが、一つの大きな流れとなって、ここまで辿り着いた。


 だが、次郎兵衛には分かっていた。これもまた、一つの節目に過ぎない。信尹が関白の座にある限り、いずれ来る「秀頼への継承」という約束を、確実なものにしていく戦いは、まだ続いていく。


 慶長六年、正月の京の空に、澄んだ青が広がっていた。


 新しい天下の形が、また一つ、確かな輪郭を得ようとしていた。


---


*(第三部・完)*


この章で一番書きたかったのは、次郎兵衛が「待つ」ことしかできない時間の描写です。「焦りが胸を焦がすが」という一文には、これまで能動的に策を仕掛け続けてきた次郎兵衛が、最後の最後で、結果を他者(信尹、そして帝)に委ねるしかないという、彼にとって珍しい無力感を込めました。

帝の「軽々に定むべきにあらず。諸家の意を尽くし、朝議をもって定めよ」という一言は、この物語全体を象徴する言葉として書きました。家康の金と圧力による速攻を、慎重な合議という朝廷本来の理屈が押しとどめる――これは、次郎兵衛たちが一貫して追い求めてきた「力ではなく構造で対抗する」という発想と、見事に共鳴しています。

「史実であれば、九条兼孝が関白に就き」という一文で、この物語が史実からどれほど大きく道を違えたかを、改めて明示しました。ですが次郎兵衛が最後に浮かべる感慨は、勝利の高揚だけではありません。「これもまた、一つの節目に過ぎない」という自戒は、関白位を巡る攻防が、いずれ来る「秀頼への継承」という、まだ果たされていない約束の、あくまで前段階に過ぎないことを示しています。

第三部はここで幕を閉じます。次の第四部「大老の盟」では、舞台が朝廷から、将軍職を巡る武家同士の駆け引きへと移り、次郎兵衛たちの戦いは新たな局面を迎えます。

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