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第二十章 誓紙

第十九章で得られた帝の御意向という手掛かりを胸に、この章で次郎兵衛はついに、具体的な「証文」作りへと着手します。相手は、まだあどけなさの残る幼い秀頼と、その母・淀の方。これまで大名同士の駆け引きを中心に描いてきた次郎兵衛が、初めて主家の中枢――秀頼自身の言葉と花押――に直接触れる場面です。

「母上と、皆のために」という秀頼の一言は、これまで政治の道具として語られがちだった秀頼という存在に、初めて一人の子供としての人格を与える瞬間でもあります。次郎兵衛がこの誓紙にかける想いの重みが、静かに強まっていく章です。


 大坂城の一室で、次郎兵衛は、淀の方、そして幼い秀頼と向き合っていた。


「誓紙、と申すか」


 淀の方の問いに、次郎兵衛は深く頷いた。


「はい。近衛信尹様は、口約束では二度と信じぬと仰せにございます。それも当然のこと。ならば我らは、今度こそ違えぬという証を、形にして示さねばなりませぬ」


「して、如何なる形にする」


「秀頼様御自らの御名、そして御花押を頂戴した誓紙に、宇喜多、前田、上杉、毛利、島津、長宗我部――此度の均衡を支える諸大名が、それぞれ連署いたします。信尹様が関白に就かれた後、秀頼様が元服・成人された暁には、正式に関白位をお返しいただく――この一事を、諸大名が総がかりで保証する形にございます」


 淀の方は、しばし考え込んだ後、傍らの秀頼に、静かに問いかけた。


「秀頼。そなたの名を、この誓紙に記すことになる。分かるか」


 幼い秀頼は、母の言葉に、真剣な面持ちで頷いた。


「母上と、皆のために」


 その素直な返答に、次郎兵衛は、思わず胸を熱くした。


(この子のために、成し遂げねば)



 誓紙の文案作りは、次郎兵衛が中心となって進められた。言葉一つ、言い回し一つにも、細心の注意を払う必要があった。


「約束が反故にされることのなきよう、明確な期限を定めるべきかと存じます」


 次郎兵衛は、達安と共に、文案を練り直しながら言った。


「秀頼様が元服される時期を、おおよその目安として明記いたしましょう。そうすれば、曖昧な先延ばしを防げます」


「なるほど。だが、あまりに厳しい期限を切れば、信尹様御自身が、それを重荷に感じられるやもしれぬ」


「その通りにございます。ゆえに、期限は定めつつも、双方の事情により、多少の融通は利かせられる――そのような、余地を残した文言にいたしましょう」


 文案は、幾度も推敲を重ねられた。次郎兵衛にとって、これは戦場での采配とはまるで違う種類の戦いだった。一つの言葉が、後々の解釈の余地を残し、それが将来の禍根になりかねない。まさに、言葉そのものが刃となる戦場だった。



 誓紙が完成し、諸大名の連署も整った頃、次郎兵衛のもとに、もう一つの動きがもたらされた。


 勧修寺光豊を通じて、後陽成天皇の御意向が、間接的にではあるが、伝えられてきたのだ。


「――帝は、いずれの武家にも偏ることなく、朝廷の権威が保たれることを、何より願っておられる」


 その言葉を聞き、次郎兵衛は、深く得心した。


(帝にとっては、徳川だけが力を持つことも、豊臣だけが力を持つことも、望ましくないのだ)


 朝廷にとって最も都合が良いのは、武家同士が互いに牽制し合い、朝廷の権威を脅かすほど、どちらか一方が突出しない状態――まさに、次郎兵衛たちがこれまで築いてきた「均衡」そのものだった。


「これは、追い風にございますな」


 達安の言葉に、次郎兵衛は頷いた。


「はい。ですが、油断はできませぬ。家康様も、同じことに気づいておられるはず。むしろ、これからが、正念場にございます」


 誓紙は、島津義弘の手を経て、近衛信尹のもとへと届けられることになった。同時に、一条内基のもとへも、この均衡の理屈を説く使者が、改めて送られた。


 年の瀬が迫る京の空に、雪が静かに降り積もっていく。


 次郎兵衛たちの投じた一手が、どのような答えとなって返ってくるか――それは、もはや、次郎兵衛の采配だけでは測りきれない、朝廷という異なる論理の中に、委ねられようとしていた。


この章で書きたかったのは、次郎兵衛にとっての「言葉の戦場」です。これまでの彼は、普請や検地、あるいは戦場での采配といった、目に見える形の戦いを得意としてきました。ですが誓紙の文案作りは、期限の定め方一つ、言い回し一つが、後々の解釈の余地や禍根を左右する、まったく別種の緊張を伴う仕事です。「一つの言葉が、後々の解釈の余地を残し、それが将来の禍根になりかねない」という一文には、次郎兵衛の戦い方が、腕力や知略だけでなく、言語そのものへの繊細な感覚にまで及んでいることを示したいと思いました。

また、後陽成天皇の御意向――「いずれの武家にも偏ることなく」――が、次郎兵衛たちの目指す「均衡」と完全に一致していると分かる場面は、これまで手探りで進めてきた朝廷工作に、初めて理論的な裏付けが与えられた瞬間です。ですが「油断はできませぬ。家康様も、同じことに気づいておられるはず」という次郎兵衛の警戒心を最後に置くことで、まだ勝負がついていないという緊張感を保ちました。

「もはや、次郎兵衛の采配だけでは測りきれない」という結びは、これまで彼が積み上げてきた知略が及ばない、朝廷という異なる論理の領域に物語が踏み込んだことを示し、次の第二十一章「関白宣下」でその答え合わせが描かれることへの、大きな伏線となっています。

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