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小早川の裏切りという、変えられなかった史実を受け止めた次郎兵衛が、この「三」でようやく目にするのは、自分たちが積み上げてきたものの、本当の成果です。史実であれば、脇坂・小川・赤座・朽木の四将が次々と寝返り、大谷隊は総崩れとなる——次郎兵衛が誰よりも恐れていたその瞬間に、達安が放つのは、史実には存在しなかった一手でした。知識だけでは動かせなかった小早川の裏切りに対し、家中の結束という、次郎兵衛たちが丹念に育ててきた「余剰の戦力」がどう作用するのか。この章は、これまでの物語全体の答え合わせとなる場面です。

「来るぞ! 備え、崩すな!」


 吉継の号令が響く中、次郎兵衛は達安隊と共に、大谷隊の右翼を固める位置に踏みとどまっていた。


 史実であれば、ここで脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱の四将までもが呼応して寝返り、大谷隊は前後左右から包囲され、壊滅する。吉継は自刃し、西軍はここから総崩れとなっていく――それが、次郎兵衛の知る結末だった。


 果たして、脇坂・小川・赤座・朽木の陣にも、動揺の色が走った。旗色を変えんとする動きが、確かに見て取れた。


「達安殿、あちらも危うい……!」


 次郎兵衛が叫んだ、その時だった。


「かかれ! 脇坂勢に、目に物見せてやれ!」


 達安が、自ら采配を振るい、動揺する脇坂勢の側面へと、別動隊の一部を突入させた。


 史実にはなかった一手だった。寝返りを迷う脇坂勢が、まさに東軍側へと転じようとしたその瞬間、横合いから達安隊が痛烈な一撃を叩き込んだのだ。


 脇坂勢の陣形が、大きく乱れた。寝返るべきか、踏みとどまるべきか――その一瞬の逡巡が、命取りになった。


「今だ、崩れておる! 押し込め!」


 達安の号令一下、別動隊は乱れた脇坂勢へと猛然と攻めかかった。小川・赤座・朽木の陣も、脇坂勢の混乱を見て、完全な寝返りには踏み切れず、動きが鈍った。


 小早川の主力による猛攻は、依然として大谷隊を苦しめていた。だが、史実で命脈を絶たれたはずの側面が、この世界では、辛うじて持ちこたえていた。


 次郎兵衛は、槍を握りしめながら、乱戦の只中で、荒く息をついた。


(変わった。確かに、変わった……!)


 だが、勝敗が決したわけではない。小早川一万五千の大軍は、今なお猛威を振るっている。大谷隊、そして達安隊も、消耗は激しい。


 戦況は、依然として、誰にも読めぬ混沌の中にあった。


 関ヶ原の空に、九月の陽が、じりじりと高く昇っていく。


この場面で一番書きたかったのは、次郎兵衛ではなく達安が、この局面を動かしたという点です。「かかれ! 脇坂勢に、目に物見せてやれ!」——采配を振るったのは次郎兵衛の知識ではなく、達安自身の判断でした。次郎兵衛が積み重ねてきたのは、正解を教えることではなく、達安という武将がここぞという場面で力を発揮できる土台を作ることだったのだと、この場面で初めてはっきりと形になります。

寝返るべきか、踏みとどまるべきか——その一瞬の逡巡が命取りになった、という描写には、史実という「確定した結果」ではなく、「揺らぎうる可能性」としての歴史を描きたいという狙いを込めました。小早川の裏切りは変えられなかったが、その後の連鎖は変えられる。次郎兵衛たちの努力は、歴史の「点」ではなく「流れ」に働きかけるものだったのだと思います。

「変わった。確かに、変わった……!」という次郎兵衛の実感で章の山場を迎えつつも、「勝敗が決したわけではない」という一文で締めることで、まだ油断できない緊張感を残しました。第八章はここで幕を閉じ、次の第九章「夕暮れの均衡」では、この混沌とした戦況が、いよいよどちらに転ぶのかが描かれます。

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