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これまで次郎兵衛が積み上げてきたのは、宇喜多家中の結束や前田家との均衡といった、いわば「自分が手を伸ばせる範囲」の変化でした。この「三」で、次郎兵衛は初めて、自分の力が及ばない領域そのものと向き合わされます。小早川秀秋。史実の関ヶ原で西軍敗北の引き金となったとされるその名前が、行軍の中、次郎兵衛の脳裏に重くのしかかります。宇喜多家の結束という「消せた脆弱性」がある一方で、小早川の胸中という「消せない不確定要素」がある——次郎兵衛の万能ではない部分が、初めて正面から描かれる章です。達安に指摘されて初めて自覚する「弱気な顔」。それは、これまで飄々と策を巡らせてきた次郎兵衛の、素の表情でもあります。

 八月に入り、西軍の主力は、美濃・尾張方面へと進軍を開始した。


 宇喜多秀家率いる軍勢も、その一翼を担い、次郎兵衛もまた、普請・兵站を担う立場として軍に同行していた。


 行軍の途中、次郎兵衛は、これから起きるであろう戦の帰趨について、繰り返し頭の中で思考を巡らせていた。


 史実の関ヶ原では、小早川秀秋の裏切りが、西軍敗北の大きな要因となった。次郎兵衛の知る限り、その裏切りの背景には、家中の分裂による西軍全体の脆弱さ、そして家康による周到な調略があった。


(宇喜多家が結束している今、その脆弱さは、少なくとも一つ、消えている)


 だが、小早川という不確定要素そのものが消えたわけではない。むしろ、次郎兵衛が最も恐れているのは、まさにそこだった。


 自分が変えられる範囲には、限りがある。宇喜多家の結束、前田家との均衡――それらは、次郎兵衛が丹念に積み上げてきた成果だ。だが、小早川秀秋の胸中までは、次郎兵衛の手の届かぬ領域だった。


「次郎兵衛殿、何を考え込んでおられる」


 馬を並べていた達安が、怪訝そうに声をかけてきた。


「……いえ。この先に待つ戦のことを、少々」


「珍しいこともあるものよ。次郎兵衛殿らしくもない、弱気な顔をしておられる」


 達安の軽口に、次郎兵衛は苦笑した。


「弱気ではございませぬ。ただ……この戦、これまでとは違う。誰にも、結末が見えぬ戦にございます」


 達安は、その言葉の意味を測りかねるように、次郎兵衛の横顔をしばし見つめた。


 軍勢は、美濃の地へと、着実に歩みを進めていく。


 史実で知る関ヶ原の地――だが、そこに集う軍勢の顔ぶれも、その結束の固さも、次郎兵衛が知るものとは、既に違っていた。


 運命の九月十五日は、もう間近に迫っていた。


この場面で書きたかったのは、次郎兵衛の万能感に、はっきりとした限界線を引くことです。「自分が変えられる範囲には、限りがある」という自覚は、これまでの章で積み重ねてきた成功体験——豪姫の心を動かし、達安と盟約を結び、家康の出方すら読み切ってきた次郎兵衛にとって、初めての「お手上げ」に近い感覚だったはずです。

達安との軽いやり取りの中に、あえて緊張を滲ませたのは、次郎兵衛がもう「余裕たっぷりの策士」ではいられない段階に入ったことを示すためです。「誰にも、結末が見えぬ戦にございます」という一言は、これまで史実という答えを知っていた次郎兵衛が、初めて読者と同じ地平——結末の分からない物語の中に立たされたことを表しています。

「運命の九月十五日は、もう間近に迫っていた」——この一文を境に、物語はいよいよ関ヶ原本戦そのものへと突入します。第七章はここで幕を閉じ、次の第八章「関ヶ原」では、次郎兵衛が知る史実と、彼が変えてしまった現実がついに正面から衝突します。

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