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プロローグで資料室の椅子から落ちた悠人は、次に目を開けたとき、まったく知らない身体の中にいます。

ここからは、悠人の視点そのままに、状況がほとんど説明されないまま物語が進みます。読者の皆さんにも、悠人と同じ戸惑いを味わっていただければと思い、あえて種明かしを急ぎませんでした。

「次郎兵衛様」と呼ばれる声、見知らぬ手、畳の匂い——悠人が少しずつ状況を飲み込んでいく過程を、一緒に体験していただけたら幸いです。

目を開けると、そこは資料室ではなかった。


 板張りの天井。障子越しに差し込む朝の光。畳の匂い。そして、自分の手――見慣れない、節くれ立った武骨な手が、布団の上に置かれていた。


「……は?」


 声を出そうとして、悠人は自分の声ではないことに気づいた。低く、しゃがれた、中年の男の声。


 飛び起きようとした瞬間、襖の向こうから声がかかった。


「次郎兵衛様、お目覚めですか。もうじき豪姫様がお越しになります」


 次郎兵衛――それが、今この身体の持ち主である中村家正の、この時代における通り名だった。


 悠人は、いや、この体は、まさに自分が論文で扱っていたその人物の身体だった。


「……嘘だろ」


 思わず漏れた言葉に、自分でも驚いた。声は家正のものだが、頭の中身は間違いなく悠人自身だ。混乱する頭で、悠人は必死に状況を整理しようとした。


 慶長何年だ。まだ騒動は起きていないのか。秀家は、豪姫は、どうなっている。


 襖が開き、若い侍女が顔を覗かせた。


「次郎兵衛様? 顔色が優れませぬが」


「……いや、大事ない。少し、考え事をしていた」


 辛うじて答えながら、悠人は必死に頭を働かせた。侍女の言葉から察するに、大坂の宇喜多屋敷。豪姫が「お越しになる」ということは、まだ関係は悪化していない。だとすれば――今は騒動が起きる前、慶長四年か五年の初め頃か。


(もし本当に、あの時代に来たのなら)


 悠人の――いや、家正の背筋に、冷たいものが走った。恐怖ではなかった。武者震いに近い、奇妙な高揚感だった。


 自分は知っている。この先、何が起きるかを。


 宇喜多騒動がいつ、なぜ起き、誰が出奔するか。前田家が家康にどう追い詰められ、まつがどんな決断を下すか。そして関ヶ原で、天下がどちらに転ぶか。


 全て、知っている。


「……変えられるかもしれない」


 呟いた声に、侍女が怪訝な顔をした。


「次郎兵衛様?」


「何でもない。それより、身支度を。豪姫様をお待たせするわけにはいかぬ」


 立ち上がろうとして、悠人は足元がふらつくのを感じた。慣れない身体。慣れない時代。だが、迷っている時間はなかった。


 もし自分の記憶が正しければ、宇喜多家という巨大な火薬庫には、すでに火種がくすぶり始めているはずだった。


悠人は、まだ何も成し遂げていません。ただ目覚め、戸惑い、そして「知っている」という一点だけを頼りに、小さな決意を固めただけです。

この場面で意識して書いたのは、悠人が興奮よりも先に「恐怖ではなかった。武者震いに近い、奇妙な高揚感だった」と感じるところです。歴史を変えるという行為は、本来もっと恐ろしいことのはずです。それでも彼がそちらに惹かれてしまうのは、研究者として誰よりもこの時代を「知っている」という自負と、傍観者でいることへのもどかしさが、ずっと彼の中にあったからだと思います。

次の「二」では、いよいよ豪姫と対面し、悠人(次郎兵衛)が初めて自分の意志で史実に手を伸ばします。

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