第七章 進軍 一
伏見城落城――もはや後戻りのできない一線を、ついに時代そのものが越えます。この「一」から、物語は「対立を防ぐ」段階から、「戦をどう戦うか」という新しい局面に入ります。
次郎兵衛にとって、この章の風景は、これまでの努力の答え合わせです。史実では家中分裂によって目減りしたはずの一万七千という兵数が、今、目減りすることなく、そのまま戦場へ向かおうとしている。史実で秀家のもとを去ったはずの重臣たちが、皆、軍列の中にいる――積み上げてきた布石が、初めて「数字」として次郎兵衛の目の前に現れる場面です。
ですがその達成感の裏で、次郎兵衛の胸には、まだ知られていない不安が静かに渦巻いています。
伏見城が落ちた、という報せが岡山に届いたのは、慶長五年七月の末だった。
鳥居元忠が守る伏見城を、西軍が攻め落としたという一報に、屋敷内は一気に色めき立った。もはや後戻りはできぬ――誰の顔にも、そうした覚悟が浮かんでいた。
次郎兵衛は、秀家の本陣に近い場所で、着々と進む軍の編成を見守っていた。
(史実より、確かに厚みがある)
史料で読んだ宇喜多軍の陣容と、今、目の前で組み上がっていく軍勢とを、次郎兵衛は頭の中で重ね合わせていた。戸川達安、宇喜多詮家、岡越前守、花房正成――史実で秀家のもとを去ったはずの重臣たちが、皆、それぞれの手勢を率いて、この軍列の中にいる。
一万七千。史実で伝わる宇喜多軍の数字は、この世界では、家中の分裂という目減りを経ずに、そのまま戦場へと向かおうとしていた。
「次郎兵衛殿」
声をかけてきたのは、達安だった。具足に身を固めたその姿は、もはや普請場で共に汗を流していた頃とは、明らかに違う緊張を纏っていた。
「戸川殿。いよいよですな」
「うむ。だが、次郎兵衛殿、そなたの働きがなければ、この陣容はなかったであろう。礼を言う」
「滅相もございませぬ。皆様のお力があってこそ」
謙遜しながらも、次郎兵衛の胸には、複雑な感慨が渦巻いていた。史実を知る者として、この先に待つ結末――少なくとも、次郎兵衛が知る「史実の関ヶ原」の結末を、次郎兵衛は誰よりも恐れていた。
だが、もはやこの世界は、次郎兵衛の知る史実とは違う道を歩んでいる。
この場面で書きたかったのは、次郎兵衛の「達成」と「恐怖」が同時に存在するという構図です。達安から向けられた「そなたの働きがなければ、この陣容はなかったであろう」という感謝の言葉は、次郎兵衛のこれまでの努力が確かに実を結んだ証です。ですが同時に次郎兵衛は、「史実の関ヶ原」の結末——西軍の敗北という結末を、誰よりも具体的に知っている人間でもあります。
家中を結束させることに成功した今、彼が本当に恐れているのは、家中の分裂ではなく、もはや自分の手が届かない領域——たとえば小早川秀秋の胸中のような、変数そのものです。この「もはやこの世界は、次郎兵衛の知る史実とは違う道を歩んでいる」という一文には、希望と不安が等しく込められています。
次の「二」では、家康の動きの速さと、前田家の「旗幟を曖昧にし続ける」という次郎兵衛の策の真価が試される場面が続きます。




