二
「一」で豪姫の願いを受け止めた次郎兵衛は、この「二」で、その願いが実際に歴史を動かす瞬間に立ち会います。まつが江戸ではなく岡山へ——史実とは明確に異なる選択が、利長の判断として現実になるのです。
ですが次郎兵衛にとって、これは手放しで喜べる展開ではありません。前田家が徳川ではなく宇喜多家を頼ったという事実は、家康の目にどう映るか。彼は誰よりもそれを理解しているからこそ、喜びよりも先に、緊張に身を固くします。
史実を変えることの重み——変えた瞬間から、その先の展開が次郎兵衛自身にも見えなくなる恐ろしさが、この場面には滲んでいます。
金沢の前田利長のもとへ、豪姫からの文が送られた。それからひと月ほどして、金沢からの返書が岡山に届いた。
「殿、いえ、利長様は、母君の岡山下向をお認めになったとのこと」
報せを受けた次郎兵衛は、複雑な感慨に襲われた。史実では、まつは江戸へ下ることで前田家の恭順を示した。だが、この世界の利長は、母を岡山――豊臣恩顧の宇喜多家のもとへ送ることを選んだ。
(これは、恭順ではない)
家康の目には、これがどう映るか。次郎兵衛には、痛いほど分かっていた。前田家が徳川ではなく、大坂・西国方に近しい宇喜多家を頼った――それは、家康にとって看過できぬ挑発と受け取られかねない選択だった。
果たして、まつ一行が岡山に到着してひと月も経たぬうちに、大坂から不穏な報せが届いた。
「江戸より、徳川様のご使者が、金沢の前田様のもとへ向かわれたとのこと」
次郎兵衛は、戸川達安と共にその報せを聞いた。
「……いよいよ、来たか」
達安の声には、緊張が滲んでいた。
「戸川殿、家康様は、どう出られるとお思いか」
「分からぬ。だが、母君を岡山に送ったとあっては、徳川様も無視はできまい。加賀を攻めるか、それとも――」
達安の言葉は、そこで途切れた。誰にも、この先の展開は読めなかった。
だが、数日後にもたらされた報せは、次郎兵衛が密かに予測していた通りのものだった。
「徳川様は、即座の出兵はなさらぬ由。まずは前田様に、真意を質す使者を重ねて送られる、とのこと」
次郎兵衛は、胸の内で小さく安堵の息をついた。
(様子見、か)
家康ほどの人物が、母を娘のもとへ送るという、いわば「私情」を理由にした行動に対して、即座に軍を動かすとは考えにくい。それは、次郎兵衛が現代の知識から導き出した、家康という人物の慎重さへの読みでもあった。
もし短慮に兵を動かせば、豊臣恩顧の諸大名たちに「徳川は些細な私情すら許さぬ苛烈な家」という印象を与えかねない。家康はまず、交渉の余地を探るはずだ――次郎兵衛はそう見立てていた。
この場面で書きたかったのは、次郎兵衛の「読み」の正体です。彼が家康の出方を「様子見だろう」と見立てたのは、未来を知っているからではありません。まつの岡山下向は、次郎兵衛の知る史実には存在しない出来事だからです。ここから先は、彼の知識ではなく、家康という人物への理解そのものが試されています。
つまりこの章は、次郎兵衛が「歴史を知る者」から「歴史の中で考える者」へと、静かに立場を移していく場面でもあります。史料の暗記が通用しない領域に、彼は自分の足で踏み出し始めました。
「動く、とは」——達安に問われて語った次郎兵衛の答えは、これまでの布石をすべて束ねる一手です。宇喜多家中の融和と、前田家との結びつき。この二つが、ここでようやく一つの盟約として結実しました。次の「三」でこの盟約がどのような形を取るのか、物語はいよいよ加速していきます。




