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第五章 岡山行き 一

第四章の終わりで蒔かれた種が、この「一」で早くも芽吹き始めます。豪姫の口から語られるのは、次郎兵衛が想定していた展開そのもの——まつを岡山に呼びたいという願いです。

ただし、ここで次郎兵衛が向き合うのは、政治的な打算だけではありません。豪姫の願いは「母を思う娘の情」から出たものであり、次郎兵衛が持ち込んだはずの史実改変の企みが、思いがけず人間らしい感情を通して形になっていく場面です。

自分が仕掛けた策が、当人の純粋な想いによって動き出す——次郎兵衛にとって、これまでとは違う種類の戸惑いが待っています。

利家の死から一月あまり。豪姫の様子は、日を追うごとに沈んでいった。


「金沢からの文が、また参りませぬ」


 侍女の言葉に、豪姫は脇息にもたれたまま、庭先をぼんやりと眺めていた。次郎兵衛が挨拶に伺った折も、心ここにあらずといった風だった。


「豪姫様。前田家のことが、お気がかりでございますか」


「……次郎兵衛、そなたは以前、徳川様には矛を収める姿勢を示す方が良いと申したな」


 豪姫の声に、次郎兵衛は内心で身構えた。あの時蒔いた種が、今ここで芽吹こうとしている。


「はい。左様に申し上げました」


「兄上は、家督を継がれたばかり。父上という重石を失った今、徳川様がどう出られるか……考えるだに、恐ろしい」


 豪姫の手が、膝の上で固く握られていた。次郎兵衛の知る史実では、この不安はやがて現実のものとなる。家康が前田利長に謀反の疑いをかけ、前田家を追い詰めていく――。


「母上は、金沢においでか、それとも」


「大納言様がご存命の頃より、母上は金沢においでです。ですが……」


 豪姫は、そこで言葉を切った。しばらくの沈黙の後、意を決したように顔を上げた。


「次郎兵衛。そなたに、折り入って頼みがある」


「何なりと」


「母上を、この岡山にお呼びすることはできぬだろうか」


 次郎兵衛は、息を呑んだ。予期していた展開ではあった。だが、豪姫自身の口からそれが語られる瞬間には、やはり緊張が走った。


「豪姫様……それは、如何なる理由からのお考えにございましょう」


「金沢は徳川様の圧が強い地。母上お一人であの地に留まられるより、この岡山――秀家様の庇護のもと、娘である私のそばにおられる方が、よほど安んじられよう。それに……」


 豪姫の目に、強い光が宿った。


「母上を思う娘の情として、恥じることは何もない。徳川様への配慮より、母への孝を選んで、何が悪かろうか」


 その言葉に、次郎兵衛は打たれた。これは政治的な計算ではない。父を喪い、実家の行く末を案じる娘の、純粋な情から出た願いだった。


(俺が蒔いた種が、こんな形で芽吹くとは)


 次郎兵衛は複雑な思いを抱えながらも、深く頭を垂れた。


「豪姫様のお心、よく分かりました。此度のこと、及ばずながら、金沢へのお取次ぎ、力添えいたしましょう」


「俺が蒔いた種が、こんな形で芽吹くとは」——この一文に、この場面で書きたかったことのすべてが詰まっています。

次郎兵衛は、豪姫にそれとなく危機感を植え付けた張本人です。ですがここで返ってきたのは、政治的な計算ずくの願いではなく、「母への孝を選んで、何が悪かろうか」という、まっすぐな情でした。史実改変のために動いていたはずの次郎兵衛が、その結果として現れた人間の想いに、逆に心を動かされてしまう——この逆転が、この場面の一番の狙いです。

策略家であろうとする次郎兵衛と、他人の情に触れて揺らぐ次郎兵衛。この二つの顔が同居し始めるところに、彼というキャラクターの厚みが出てきたのではないかと思います。次の「二」では、この願いが金沢の利長のもとへ届き、史実とは異なる形で応えられていきます。

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