第九十話 「私が、何も言わない日」
九十日目。採決の日。
傍聴席の三列目に座った。いつもの席で、いつもの服だ。
議場は開議の半刻前から、四十七の席のほとんどが埋まっていた。こんなに早く埋まる日を、私は二度しか見たことがない。一度目は、弁明の七日の最後の日だった。
父はいつもの通りの時刻に入って、いつもの通りに座った。書類の角を、一度、揃えた。
議長が開議を告げた。
書記官が案の表題を読み上げた。役職名簿の改定に関する案、第二稿。提出、ローゼンベルク家。
「なお、本案は、第一条の役の名の欄が、空白のままでございます」
二ヶ月前と、同じ一言だった。
二ヶ月前は、その一言のあとに書面をめくる音が十いくつ、同時に鳴った。
今日は、鳴らなかった。
議長が役の名について、議場の意見を求めた。
最初に立ったのは、ハイデン子爵だった。
「連署人、はいかがでございましょうか」
議場が、少し動いた。
「ご理由を」
「本案の第五条に、書いた者の名と、書かせた家督の名を、同じ行に記す、とございます。二つの名が同じ行に並ぶ役でございますので、連署、と」
議長が他に案はあるかと聞いた。
三つ出た。代署人。副署人。家督補。
議論は四半刻ほど続いた。
代署人は代わりに署名する者、という意味になる。それでは家督代理と紛らわしい、という指摘が出た。副署人は主たる署名の下に付く形になる。第五条は二つの名を上下ではなく横に並べる形なので、合わない。家督補は家督の補佐という意味に読めて、責めが家督に寄る。
残ったのは、連署人だった。
議長が役の名を連署人とすることについて、異議はあるかと聞いた。
異議は出なかった。
私は傍聴席の手すりに置いた手を、動かさなかった。
当家が付けた名ではない。当家の書斎の呼び名でもない。四十七家が四半刻話して決めた名だ。
家督代行、という言葉は、この議場で、一度も出なかった。
採決に入った。
この貴族院の採決は名を呼ばれた家が、順に立って、賛否を言う。古い家から順だ。
名を呼ぶのは議長ではなく、書記局の書記官だ。四十七の家名を、順に読み上げる。
「ノルトハイム伯爵家」
「賛成」
「ヴェルドナー伯爵家」
「賛成」
立って、二文字言って、座る。それだけが四十七回続く。
最初の五家は、賛成が四、反対が一だった。反対の一家は南の伯爵家で第一読会の日に書式の不備を指摘した方だった。
「反対」
理由は述べない。反対の家は理由を述べなくてよい。
述べなくてよい作法を、私は今日はじめて、ありがたいと思った。理由を述べる作法であれば、反対の七家は、七度、当家の名を口にすることになる。当家の名が七度出た採決は、当家の採決になる。
六番目に、シュタイン子爵家。賛成。
その後、古い側が続いた。賛成が多い。反対は間に一つずつ入る。
当家の番が来た。
父が立った。
「賛成」
それだけ言って、座った。
この案について、父が議場で発した言葉は、この二文字が全部だった。
二ヶ月前に、手を出さないと決めて、その通りにした。書面も作らず、議席でも話さず、最後に二文字だけ言った。
新しい側に入った。
ケラー男爵家、賛成。ブルーメ男爵家、賛成。
ハイデン子爵家、賛成。
ヴァイス子爵家の番になった。
その方は、立つのが他の家より少しだけ遅かった。
立ってから、議長の方を見て、それから、一度だけ、傍聴席を見た。
二ヶ月前、この方は、傍聴席を見なかった。
「賛成」
座った。
最後の一家まで進んで、議長が数を告げた。
賛成三十八。反対七。棄権二。
可決。
議場は、静かだった。拍手も、声も出ない。貴族院では採決の後に音を立てない作法になっている。
議長が施行の日を告げた。名簿の改定は、来月の一日から。指名の届けの受付は、その日から始まる。
それで終わりだった。
開議から、一刻と少しだった。
傍聴席を出て、廊下を歩いた。
階段の手前で、ハイデン子爵に会った。
「ローゼンベルク嬢」
「子爵様。お名を、頂戴いたしました」
「連署人、でございますか」
「はい」
「私が付けた名ではございません。第五条に書いてあることを、そのまま名にしただけでございます」
「四半刻で、決まりました」
「決まりましたな。四半刻というのは、貴族院では、ずいぶん早い方でございます」
「早うございますか」
「一昨年、議場の椅子の張り替えの色を決めますのに、二日かかりました」
私は思わず笑った。
「子爵様」
「はい」
「五十日前に、下書きをお見せいたしました時、順序が残りの三家に効く、と仰いました」
「申しました」
「効きました」
「効かせたのは、私ではございません。四家に、ご自分の家の数字が届いたからでございます」
子爵が階段の方へ一歩動いた。
「ローゼンベルク嬢。当家は、来月、届けを出します」
「どなた様を」
「娘でございます。二十二になります」
「ご息女が、ご当家の書面を」
「三年、私の脇で写しております。私が夜に書いているのを、あれは、隣で見ておりました」
「では、名が載りますね」
「載ります。載りましたら、あれの書き損じは、あれの名で残ります」
子爵が、はじめて、少し困った顔をした。
「それが、どうにも、親としては」
「お気持ちは、存じます」
「ご当家は」
「当家も、来月、出します。どなたを書くかは、まだ、決めておりません」
三階の廊下の、通らない側には誰も立っていなかった。
階段を降りると、下の廊下に当家の書記官が立っていた。
「ローゼンベルク様」
「お疲れさまでございました」
「私は、本日、一言も申し上げておりません」
「私も、申し上げておりません」
書記官が、少し笑った。この方が笑うのを、私ははじめて見た。
「二ヶ月、答弁の書面を作ってまいりました。読み上げましたのは、四回でございます」
「四回、読み上げていただきました」
「四回とも、書いてあることを読んだだけでございます」
「それが、いちばん強うございました」
貴族院の建物を出た。
中庭に四十七家の紋を彫った石が並んでいる。当家の石は、右から十一番目だ。
石の前を通って、門へ向かった。
誰も私に声をかけなかった。
議場では四十七家が名を決めて、四十七家が票を入れた。当家が出した案が通ったのに、通した場所に、私はいなかった。いたけれど、いなかったのと同じだ。
いなかったのと同じにするために、九十日、動いた。
馬車に乗って、屋敷へ戻る道の途中で、南の橋を渡った。
昨日、額を返した橋だ。
橋の上で、馬車が少し止まった。荷車が二台、前を塞いでいる。御者が謝った。私はそのままで結構です、と答えた。
窓から、荷車の御者を見た。
この人たちが、来月から、名前の残る紙で荷を運ぶ。運ばれる荷は、何も変わらない。変わるのは、紙の上の一行だけだ。
その一行を書き足すのに、四十七家が、二ヶ月かかった。
二ヶ月かかったものは、二ヶ月では消せない。
馬車が動き出して、橋を渡り切った。
渡りながら、賛成三十八という数を、もう一度、頭の中で置いた。
四十七のうち三十八。四十日前の私の勘定では、三十四だった。増えた四家がどこかは、たぶん、一生わからない。名を呼ばれて二文字言うだけの採決では誰がいつ決めたかは、記録に残らない。
残らないのが、いい。
残ってしまえば、この案は誰かを説き伏せた記録になる。説き伏せた記録のある案は、説き伏せた人がいなくなった時に、揺り戻される。
誰が決めたかわからない形で通ったものが、いちばん長く残る。
屋敷に戻ると、玄関に父が立っていた。
議場から先に戻っていたらしい。書類は手に持っていない。
「アリシア」
「はい」
「通った」
「通りました」
父が書類の角を揃える手つきを、一度だけした。手には何も持っていなかった。
リゼットが廊下の角のところで、少しだけ顔を伏せた。
三ヶ月のうちの、九十日目。
三ヶ月が、今日で終わった。
役の名は、連署人に決まりました。四十七家が四半刻お話しになって、お決めになった名でございます。
賛成三十八、反対七、棄権二。可決でございます。本日、私は、一言も申し上げておりません。
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