第九十一話 「整え続ける人が、私でなくても」
来月の一日、指名の届けの受付が始まった。
貴族院の書記局の窓口に朝から列ができた。窓口が三つあるうちの、いちばん右。四十年、同じ方が立っている場所だ。
当家の順番は三番目だった。
一番目は、ハイデン子爵家だった。子爵はご息女の名を書いて出された。次に就く者の欄にはご自分の名を書いておられた。就く者が欠けた時に、また当主が全部書く形に戻る、というだけの届けだ。
二番目は、ヴァルナー辺境伯家。ヴェルナー殿の名と、関の門番頭の名。指名の範囲は国境の通行に関する書面のみ。二百年、名簿の外にあった家の名が、この日、名簿に入った。
三番目が、当家だ。
届けを書いたのは、私だった。
連署人の欄に書く名を、机の前で少し止まって書いた。
ヨナス。
私は、この十年、この方を当家の書記官、と呼んできた。議場で当家の書面を読み上げてきたのも、答弁の席に立ったのも、この方だ。二ヶ月の審議で、四回、書いてあることをそのまま読み上げた。
名前を書く欄に書くのは役の名ではない。名前だ。
書いてから、当人に見せた。
「私の名でございますか」
「ご不服でございますか」
「不服ではございません。ただ——」
ヨナスが届けの紙をしばらく見ていた。
「十年、当家の書面を書いてまいりました。書いたものに、私の名が載ったことは、一度もございません」
「ございませんでした」
「載りますと、書き損じの責めが、私に参ります」
「参ります」
「……承知いたしました」
次に就く者の欄には三年前から当家に入っている若い書記の名を書いた。ヨナスがその名を挙げた。三年、この方の癖を写している者だという。
同じ日に、もう一枚、届けを出した。
当家の家督を、父から私へ。
「父上。よろしいのでございますか」
「渡す時期は、渡す者が決めてはならん、と書いてあった」
「祖父の紙でございます」
「受け取る者が、受け取れる形になった日に渡す、とも書いてあった。今日だ」
父はそれだけ言って、署名した。
貴族院の名簿の当家の欄に、いま、二つの名が載っている。
家督、アリシア。連署人、ヨナス。
私は六つ目の役に一日も就かなかった。
二ヶ月、その役を作るために動いて、できた日に別の人に渡した。
書記局の帰りに白い紙を四枚、鞄に入れて持ち歩いていたことに気づいた。もう、要らない紙だ。
一枚目、反対なさる方のお名前。二枚目、助かる方のお名前。三枚目、採決日までに説明を済ませておく順番。
三枚は書斎の引き出しにしまった。
四枚目だけは机の上に置いた。
当家が出す前から、知っていた方。一行目、グルゼマン伯。二行目は、空いたままだ。
その紙は、まだ、終わっていない。
三ヶ月が過ぎた。
私は、いま、ヴァルナー領にいる。年のうちの三ヶ月の、二月目だ。
北の湧水の脇に小さな小屋が建った。渇水の年の分け方をその年に口で決めるのに、両家の者が座る場所が要る、とヴェルナー殿が言い出した。作法が、また一つ増えた。
王都からは、十日に一度、書面の束が届く。
束の中に、当家の書面が入っている。差出はローゼンベルク家、連署人、ヨナス。私の名は家督の欄にあるだけで書面の本文には出てこない。
三ヶ月で、当家の書面は一度も止まっていない。
止まっていないことを、私は十日に一度の束で知る。知るだけで、何もしない。何もしなくてよいことを確かめるのに、はじめの一月は束を三度読み返した。二月目からは一度で足りるようになった。
貴族院の名簿には施行から三ヶ月で三十四家が連署人を届け出た。四十七家のうちの、三十四だ。
届け出ていない十三家のうち、六家は届け出ない旨を届けている。残りの七家はまだ何も出していない。出さない家があってよい、というのは条文にそう書いてあるからだ。全部の家が使う仕組みは、たいてい、どこかで無理をしている。
記録院からは、月に一度、数字が届く。
施行後の三ヶ月で、貴族院に出た書面のうち役の名が無くお名前だけのものは十一通だった。三ヶ月前の同じ数え方で五十二通だった場所だ。
ゼロにはならない。ならないことを、ルーカスははじめの報せに書いてきた。ゼロになる仕組みは、たぶん、どこかで嘘をついております、と。
北の鉱山の中継については、この三ヶ月、何も動いていない。
あの方の名が書かれた委託の書面は、施行の日に役の名の欄が空のまま失効した。失効の通知がコーデルへ出た。返事は来ていない。
白い紙の四枚目の二行目は、まだ空いている。
辺境の三ヶ月が終わる前の日、南端の高台に二人で上がった。
去年、ここで私は九ヶ月と三ヶ月の話をした。
高台の上は王国側に開けている。街道が見えて、その向こうに低い丘陵がある。今日は東から風が来ていた。
「アリシア」
「はい」
「王都の書面は、止まっておりませんね」
「止まっておりません」
「お寂しくは、ございませんか」
私は、少し考えた。
考えてから、正直に答えた。
「はじめの一月は、寂しゅうございました」
「いまは」
「いまは、別のことを考えております」
「伺います」
「連署人の役は、毎年、届けを出し直します。来年の当家の届けを書くのは、家督の私でございます。書きます時に、私は、同じ名を書くか、別の名を書くかを、決めることになります」
「決められますか」
「決めます。ただ——決める時に、私の都合で決めますと、祖父と同じことをいたします」
「渡す時期は、渡す者が決めてはならない」
「はい」
「では、どうなさいますか」
「毎年、ヨナスに聞きます。まだ書きたいか、と」
カイが、少し笑った。
「聞いてしまいますと、あの方は、書きたい、とお答えになりますね」
「答えます。ですから、同じ日に、次に就く者にも聞きます。まだ写しているか、と」
「二人に聞いて」
「二人が同じ答えを出しました年に、渡していただきます」
風が街道の上を東から西へ流れていた。
高台の下の道を、荷車が一台、王都の方へ動いていく。あの荷は三日前に関を通った荷だ。通行の書面にはヴェルナー殿の名と、役の名が入っている。
通した者の名が残る紙が、いま、あの道を運ばれている。
「カイ」
「はい」
「去年、この場所で、私は、家督代行の制度化が近々進む見込みです、と申し上げました」
「伺いました」
「あの時、私は、自分の役に名前が付く話だと思っておりました」
「違いましたか」
「違いました。名前が付いたのは、私の役ではございません。私が居なくなった後の、誰かの役でございます」
カイが街道の方を見たまま、頷いた。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「三ヶ月前から、というのは、何のご準備でございましたか」
私は、少し笑った。
この人は答えを知っていて聞く。聞かれた方が自分の言葉で言い直すことになるのを、知っている。
「はじめは、勝つための準備でございました」
「いまは」
「いまは、私が居なくなっても、困らないようにしておく準備でございます」
「そちらの方が、長うございますね」
「三ヶ月では、足りませんでした。あと何年か、かかります」
「何年でも、こちらにいらしてくださいませ。年に、三ヶ月ずつ」
「三ヶ月ずつ、参ります」
頬は隠さなかった。
隠す必要のない場所に、いま、立っている。
王都の当家の書斎に、暦がある。辺境から戻った日に、机の上で開いた。
去年の暦には印が三つ付いていた。婚儀の日と、採決の日と、その二つに挟まれた最終審議の日。
今年の暦には印が一つも付いていない。
付ける必要のある日がいまのところ、無い。
連署人の届けの出し直しは、来年の春だ。王家の名簿の手続きも来年の春に定まる。コーデルからの返事は来るかもしれないし来ないかもしれない。四枚目の紙の二行目は、まだ空いている。
どれも、いまの私が机の前で決めることではない。
準備は、三ヶ月前から。
その言い方を、私は十年、勝つ日から逆算するために使ってきた。逆算する日があるあいだは、いつでも、机の上に印が付いていた。
印の付いていない暦をはじめて見ている。
整え続ける、というお話にお続けの形が変わったのが去年のことだった。
今年は、そこから、もう一つ動いた。
整え続ける人が、私でなくても、よくなった。
机の上に白い紙を一枚だけ残した。四枚目だ。
いつか、二行目に名前を書く日が来る。来ない年は、そのままにしておく。
書斎の窓から玄関が見える。白い薔薇と、名前のわからない小さな花と、その隣の苗。
苗は去年の蕾を全部咲かせて、今年は少し背が伸びていた。
いつからそこにあったのかを、そのうち、誰も言えなくなる。
それでいい。
六つ目の役は、連署人という名になりました。私はその役に、一日も就いておりません。作った日に、別の方へお渡しいたしました。
整え続ける人が、私でなくても、よくなりました。——これにて、完結でございます。長らくのお付き合い、ありがとうございました。
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