第八十九話 「三日前に、開いた門」
八十九日目の朝、屋敷を出た。
空は薄い曇りだった。晴れでも雨でもない辺境の言い方ではいちばん荷の動きやすい日だという。
玄関を出る前に、白い薔薇の脇の苗を見た。
蕾は七つになっていた。カイが馬車の中で数えた通りだった。
式は王都の当家の敷地の中でも、王宮でもなく、南の橋のたもとの古い礼拝堂で行った。両家で選んだ場所ではない。父が一つだけ出した希望だった。理由は聞かなかった。荷に入れた額を見た朝に、たぶん、わかった。
礼拝堂に着いたのは日が高くなる少し前だ。
中は、思っていたよりも狭かった。席は二十ほど。当家からは父とリゼットとアルブレヒト、書記官とイルマ。ヴァルナー家からはカイとヴェルナー殿と、辺境から出てきた三人。
セレストとルーカスが後ろの席に並んで座っていた。
レオン殿下はお越しにならなかった。前の晩に、お手紙だけが届いた。私が参りますと、明日の議事に王家が関わっている形になります、とだけ書いてあった。
その通りだった。この方は、いつも、その通りのことをなさる。
式が始まる前に、ヴェルナー殿が私のところへ来た。
「ローゼンベルク様。関の帳面の写しを、お持ちいたしました」
「三日前の分でございますね」
「三日前の朝、七つ半に開けました。開けた時に、門の外に、荷車が二台、既に待っておりました」
「二台」
「早く開くと、誰にも申しておりません。あの二台は、いつもの時刻に来て、いつもより早く通れた、というだけでございます」
「では、二台のご主人は、何が起きたかご存じない」
「ご存じありません。ただ、その日の昼までに、二台は、いつもより一つ多く荷を運べました」
私は写しを受け取った。
誰も知らない朝に、門が早く開いて、二台の荷車がいつもより一つ多く運んだ。
それが、この日のいちばん外側で起きたことだった。
式が始まる前に、セレストが来た。
「アリシア様」
「セレスト様。お越しくださいまして」
「本日は、お祝いだけ申し上げに参りました。お仕事のお話は、いたしません」
「ありがとうございます」
「一つだけ、申し上げますと——」
セレストが後ろの席の方を見た。ルーカスが、そちらでこちらを見ずに座っている。
「あの方が、昨夜、四階の帳面をお持ち帰りになりました。本日、お式の後にお使いになるおつもりだったようで、私が取り上げました」
「取り上げてくださいましたか」
「本日は、お仕事の日ではございませんので」
私は少し笑った。
この方は王太子妃候補と呼ばれていた頃から、こういう線の引き方をなさる。
式そのものは、短かった。
辺境の作法と王都の作法を両方入れたので、順番だけが少し込み入った。祈りの言葉が二種類あって、どちらも短い。カイは辺境の言葉の方を少し低い声で言った。
誓いの場面で、私は頬が熱くなるのを感じた。
隠さなかった。
隠すものを、この十年、私は手の中に持ち続けてきた。持たなくなってから、ずいぶんたつ。持たない手で、いま、別の人の手を取っている。
辺境の言葉の方の祈りには水の名前が三度出てきた。湧水と、雨と、井戸だ。王都の言葉の方には、水の話は出てこない。出てくるのは、家と、名と、続きの三つだった。
二つを続けて聞くと、二つの土地が、それぞれ何を怖がってきたかがわかる。辺境は水が絶えることを王都は名が絶えることを怖がってきた。
どちらも続くかどうかの話をしている。
式が終わって、礼拝堂の外へ出た。
橋が見えた。
王都の南の橋。石造りの、古い橋だ。この街に住んでいれば、月に何度も渡る。渡るだけで誰も立ち止まらない。
「カイ」
「はい」
「お返しするものがございます」
私は布の包みを渡した。
カイがその場で布を開いた。
額の中の絵と、目の前の橋を、二度、見比べた。
「……ここから、でございますね」
「たぶん、この角度でございます」
「父は、王都に、二度しか参っておりません。二度目が、母の亡くなった年でございます」
「その年に、お描きになったのでしょうか」
「わかりません。ただ、この橋は、二度目に泊まった宿から、歩いて半刻の場所でございます」
カイが額を布に戻した。
「十年、ご当家の書庫の箱に、ございました」
「ございました。返却時期は、先方の家の事情の落ち着き次第、と書いてございました」
「落ち着きましたか」
「明日、決まります」
「明日でございますね」
「明日でございます。ですから、本日は、まだ落ち着いておりません」
カイが、少し笑った。
「落ち着いていない日に、お返しいただきました」
「先代様が、いつ落ち着くかをお書きにならなかったのは、たぶん——落ち着く日というものが、来ないことをご存じだったからだと存じます」
「来ませんか」
「来ません。当家は、明日、名簿の話が片付きます。片付きましたら、次の日から、別の片付いていないものが、机の上に出て参ります」
「では、いつお返しになっても、同じでございますね」
「同じでございます。ですから、いちばん、覚えていられる日にいたしました」
礼拝堂の前で、父が橋の方を見ていた。
この場所を選んだのが父だと、両家の誰もが知っている。理由を聞いた者は、たぶん、一人もいない。
私は、隣に立って、同じ方を見た。
「父上」
「なんだ」
「祖母は、この橋を、ご覧になったことがございましたか」
父がしばらく答えなかった。
「絵を描く場所を、探して歩く人だった」
「では」
「見ていたかどうかは、知らん。私が知っているのは、母が、辺境の湧水を描いたということだけだ」
「先代の辺境伯様は、この橋を描いておられました」
「そうらしいな」
父が橋の方から目を離した。
「二人とも、自分の家から見えない場所を描いている」
「見える場所は、お描きにならなかったのでしょうか」
「見える場所は、いつでも描ける。いつでも描けるものは、たいてい、描かん」
夕方、当家の屋敷に戻って、目録の写しを出した。
十九行のうち最後の一行の脇に、丸を付けた。
先代辺境伯より預かりの品、返却時期未定。
十九行、全部に丸が付いた。
この目録を祖父と先代の辺境伯が書き始めたのは二十年以上前だ。十七行までは二人の代で丸が付いた。残りの二行は二人が同じ冬に亡くなって、十年、そのままになっていた。
二行のうち一行は、湧水の脇で口で片付けた。
もう一行は、今日、橋のたもとで片付いた。
紙を畳んで、額の裏ではなく、机の引き出しに入れた。
もう、隠す場所に置く必要が無い。
夜、リゼットが最後の荷を確かめに来た。
「お嬢様。明日は、傍聴席でございますね」
「傍聴席でございます」
「お召し物は、いつものものを」
「いつものもので結構です」
「かしこまりました」
リゼットが下がりかけて、一度、止まった。
「お嬢様」
「はい」
「本日、お式の間、ご当主様が、二度、書類の角を揃える手つきをなさいました」
「お手元に、書類はございませんでしたね」
「ございませんでした」
私は少し笑った。
「では、明日は、三度なさるかと存じます」
荷は玄関の脇に積んである。輿入れの荷は明日ではなく、来月に運ぶ。年のうち九ヶ月は王都にいるので、急いで運ぶものが少ない。
急いで運ばなくてよい輿入れ、というのは、この国ではあまり例がないらしい。リゼットが支度の目録を作る時に、書式が無い、と一度だけ困った顔をした。
書式が無いものはこちらで作るしかない。作ったものは次に同じことをする人が使う。
窓の外は、もう暗い。
明日は、朝から議場に人が集まる。四十七の席が埋まり、私はその上の傍聴席に座る。座って、一言も話さない。
話さないために、八十九日、動いてきた。
三ヶ月のうちの八十九日目。あと一日ある。
三日前の朝に、辺境の関の門が開きました。二台の荷車が、いつもより一つ多く運んだそうでございます。
お預かりの額は、橋のたもとでお返しいたしました。目録の十九行に、全部、丸が付きました。
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