第八十八話 「人の行に、二つ書く」
八十八日目の午前、最終審議が開かれた。
私は傍聴席の三列目にいた。前と同じ席だ。
議場では当家の書記官が答弁の席に立っていた。届け出た答弁者は最後まで変えなかった。
質疑は、四つ出た。
一つ目は、指名の届けを毎年出し直す手間について。書記官が記録院の様式を読み上げて答えた。
二つ目は、次に就く者を併せて記す条文について。書けない家はどうするのか、という問いだった。書記官は書けない家は書かなくてよい、と答えた。ただし、書かない家は、その旨を届けに記す。記した家は役に就いた者が欠けた日から、三ヶ月のあいだ、家督代理の様式で回す。
三つ目は、居住の要件について。年のうち九ヶ月というのは長すぎないか、という問いだった。書記官は九ヶ月は書面を作る場所に居る日数であって、領地に居る日数ではない、と答えた。
四つ目は、コーデルの書面の扱いについてだった。
問うたのは外の国と商いをしている十一家のうちの一家だ。評議会の一枚は六つ目の役ができた場合に照合したうえで受理する、と書いてある。照合に日数がかかれば、荷が遅れるのではないか。
書記官が記録院の写しを読み上げた。照合は名簿の写しを港に置けば足りる。名簿は年に一度更新される。更新の写しを送る費用は、外交府の既定の便に載る。
問うた家は、そうか、とだけ言って座った。
四つとも書面に書いてあることの読み上げだった。
新しい話は、一つも出なかった。
議長が質疑を打ち切って、採決は明後日と告げた。
一刻半で終わった。
傍聴席を出る時に、下の議場を見た。四十七の席のうち、書面を鞄にしまいながら隣と話している席が、いくつかある。話の中身は聞こえない。ただ、話し方が二ヶ月前と違っていた。
二ヶ月前、この案は当家の案だった。
いま、四十七家は自分の家の届けをどう書くかを話している。
案が自分の家の話になった時、人は賛否を言うのをやめて、書き方を聞き始める。書き方を聞く人は通った後のことを考えている。通った後のことを考えている人が四十七のうち、いくつあるか。
私は傍聴席から、そういう席を数えた。二十七あった。
数え終えて、手すりから手を離した。数えたところで、明後日の票が変わるわけではない。ただ、二ヶ月前に同じ場所で数えた時、この数は九だった。
屋敷に戻ったのは、昼を回った頃だった。
玄関でリゼットが待っていた。
手に支度表を持っている。
「お嬢様。お時間を、頂戴してもよろしいですか」
「伺います」
「本日でございます。期限は、輿入れの前日と、申し上げておりました」
「本日でございますね」
書斎に上がって、机を挟んで座った。この人と、机を挟んで座るのは、めずらしい。
支度表を机の中央に置かれた。
王都と辺境の両方に置くもの。物の行は全部埋まっている。二つずつ書いてある。
人の行だけが、空いている。
「お嬢様。私は、三度、書き直しまして、三度、止まりました」
「存じております」
「ご存じでいらっしゃいましたか」
「廊下の角で、お止まりになる回数が、増えておりました」
リゼットが、はじめて、わずかに目を伏せた。
「二十年、その角で止まっております」
「存じております」
「本日、四度目に、書けました」
リゼットが、筆を取って、人の行に書いた。
二行、書いた。
一つ目に、リゼット。行き先の欄に、辺境。
二つ目に、イルマ。行き先の欄に、王都。
「イルマ」
「三年前から、当家におります。厨房の脇の勘定を、いま、あれが見ております」
「存じております。母上様の代からの、宿の給仕のお家の」
「その家の、三番目の娘でございます」
私は二行目の名を見た。
「リゼット。あなたは、辺境へ」
「お供いたします」
「王都の家は」
「イルマが見ます。私が、あと二ヶ月で、渡せるだけ渡します」
私は筆を置いた。
「三度止まったのは、どちらへ行くかで、迷ったからではございませんね」
「ございません」
「では」
リゼットが支度表の人の行を、指で一度、押さえた。
「私が、選ぶ側であってよいのか、と思っておりました」
「はい」
「二十年、私は、選ばれる側でございました。お母様に選ばれて、この家に参りました。お嬢様のお側に、と決めましたのも、私ではございません」
「母が、決めました」
「決めていただきました。決めていただいたものを、二十年、務めてまいりました」
リゼットが、顔を上げた。
「今度は、私が決めることになりました。決めますと——決めた分だけ、どちらかの場所が、私のいない場所になります」
「なります」
「私のいない場所が、それで回らなくなりますと、それは、私が選んだせいでございます」
私はしばらく待った。
「四度目に、何が変わりましたか」
「お嬢様の、三つ目の条文でございます」
「次に就く者を、併せて記すこと」
「あの一行を、書記局へお出しになる前に、ご当主様のお部屋で、お読みになりましたね」
「読みました」
「私は、廊下におりました」
私は少し目を上げた。
「聞いておられましたか」
「聞くつもりはございませんでした。お茶をお持ちする手前で、止まりました」
「角で、でございますね」
「角で、でございます」
リゼットが支度表を、私の方へ滑らせた。
「選ぶ、というのは、どちらかを捨てることだと思っておりました。人の行に、一つしか書けない、と思っておりましたので」
「二つ、書かれました」
「書きました。二つ書けば、捨てる方がございません」
「イルマは、承知しておりますか」
「先月から、話しております。あれは、三年、私の癖を写しております」
「癖を」
「私が、お嬢様の癖を読みますように。あれは、私の癖を読んでおります。読める者に渡せば、渡した後も、家は回ります」
私は支度表の二行を、もう一度見た。
リゼット。辺境。
イルマ。王都。
「リゼット」
「はい」
「二十年、ありがとうございました」
「まだ、終わっておりません」
「終わっておりませんね」
「あと、何十年か、ございます」
リゼットが立ち上がって、いつもの礼をした。礼の角度が、いつもと同じだった。
リゼットが出ていってから、私はしばらく支度表を見ていた。
二十年、この人は私の半歩先を歩いてきた。私が何かを決める前に、決めた後に要るものが、いつのまにか揃っている。揃えている人のことを、私は揃っているものからしか知らない。
その人が、四度目に書いた二行が、机の上にある。
一行目に自分の名を書き、二行目に、渡す先の名を書いた。書く順が逆でないところに、この人の二十年が出ていた。
夕方、書庫へ降りた。
北の壁の下段の木箱、右から二つ目。額を二つとも出した。
一つはヴァルナー領の北の湧水。祖母の絵だ。
もう一つを、はじめて、裏まで見た。
王都の南の橋。絵の下の隅に、小さな署名がある。ヴァルナー、とだけ書いてあった。先代の辺境伯の字だ。
カイのお父上は王都の橋を描いておられた。
同じ頃に、祖母は辺境の湧水を描いていた。
二枚を並べて、しばらく見ていた。
互いの家の、互いに知らない場所を、同じ頃に、それぞれ描いている。二枚とも、この十年、同じ箱の中にあった。
絵を布に包んで、明日の荷に入れた。
三ヶ月のうちの八十八日目。あと二日ある。
夜、辺境からの早馬が着いた。
三日前の朝、ヴァルナー領の関の門を、予定より早く開けた。開けた時刻と、通した荷の数が書いてある。書いたのは、ヴェルナー殿だった。
文の最後に、一行だけ、付け足しがあった。
当家の作法が一つ増えましたので、来年からは私が忘れませぬよう、関の帳面に書いておきます。
支度表の人の行に、二つ書きました。二つ書けば、捨てる方がございません。
箱の中の額は、二枚とも、互いの家の、互いに知らない場所でございました。明日、お返しに参ります。
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