第八十七話 「廊下で、お待ちになる方」
八十五日目、貴族院の三階の廊下に、その方は立っていた。
私が記録院から戻って、書記局へ最後の書面を出した帰りだった。廊下は西向きで、この時間は窓から入る光が長く伸びる。
その光の中に、五十ほどの男が一人、壁を背にせず、廊下の真ん中に立っていた。
壁を背にしない人は、逃げる気の無い人だ。
「ローゼンベルク嬢」
「どちら様でいらっしゃいますか」
「クルト・フォン・ベルクと申します」
私は足を止めた。
名乗られてから、はじめて顔を見た。姉君に似ておられるかどうかは、私にはわからない。ヘルガ様を私は一度も見たことがない。
「お約束は、頂戴しておりませんが」
「頂戴しておりません。廊下でお待ちいたしました」
「廊下でお待ちになる方に、当家は、心当たりがございます」
「オーステン侯爵でございますな」
「ご存じでいらっしゃいますか」
「あの方の廊下の使い方は、下手でございました。待つ場所が、いつも、人の通る側でございましたので」
この方は通らない側に立っていた。三階の廊下のこちら側は書記局へ行く者しか通らない。
服は王国の仕立てだった。コーデルの商人の服でも、貴族の服でもない。この国の、少し古い形の、目立たない仕立てだ。二十年、この国に出入りしてきた人の選び方だった。
オーステン侯爵は廊下で待つ時、いつも私の進路を塞いだ。塞いで、こちらが足を止めるのを待った。あれは待っているのではなく、止めていたのだ。
この方は塞いでいない。私がそのまま歩き抜けることもできる。
できるのに、足を止めた。止めたのは私の方だった。
その一点だけでこの人が二十年何をしてきたかが、わかる気がした。
「お話は、手短にいたします」
「伺います」
「三日後の採決、通ります」
私は表情を変えなかった。
「そのようにお思いでいらっしゃいますか」
「思っております。四十七家のうち、三十六家は、もう決めております。数え違いはございません」
「よくお数えでいらっしゃる」
「二十年、数えてまいりましたので」
男が廊下の光の中で少しだけ位置を変えた。
「私は、通してよい、と思っております」
私は、そこではじめて相手の顔を正面から見た。
「お通しになりたい、と」
「通ってよい、と申しました。私が通したいわけではございません。ただ、止める手が、もう、間に合いません」
「間に合いませんか」
「間に合いません。あなたが、四十日前に記録院へ頼まれたものが、効きすぎました」
私は黙っていた。
「本日は、その先のお話に参りました」
「先の、お話」
「名簿に六つ目の役ができます。ご当家からは、あなたが就かれる」
「就きます」
「その役に、何年、就いておられますか」
廊下の光が床の石の目地を一つ分、移った。
「まだ、決めておりません」
「決めておられない」
「条文に、次に就く者を併せて記す、と書いてございます。書いた以上、私は、いつか、その方にお渡しいたします」
「いつか、というのは」
「渡す時期は、渡す者が決めてはならない、と教わりました」
男が、はじめて、わずかに目を動かした。
「……先代のローゼンベルク卿の、お言葉でございますな」
「ご存じでいらっしゃいますか」
「存じません。ただ、あの方が仰りそうな形でございます」
私はその返し方に少しだけ寒いものを感じた。
この人は祖父の書面を、読んだことがある。読んだことがある人は書いていない言葉まで、形で当ててくる。
「フォン・ベルク様」
「はい」
「本日のご用件を、伺ってもよろしいですか」
「あなたに、その役に、長く就いていただきたく存じます」
廊下が、しばらく、そのままになった。
「長く」
「十年でも、二十年でも。あなたが座っておられる限り、国境の話は、あなたお一人と付きます。私は、あなたのお書きになるものを、読み方まで存じております」
「二十年、お読みでいらっしゃる」
「ご当家の書面は、三代とも、癖が違います。お祖父様は、断る時にだけ、書き出しが二字下がる。お父上は、断る時に、書面を短くなさる。あなたは——」
「私は」
「あなたは、断る時に、こちらの言い分を、先に一度、そのまま書き写されます」
私はその通りだと思った。思ったことを、顔に出さなかった。
断る時に、相手の言い分を先に書き写す。あれは五年ほど前に自分で決めた書き方だ。写しておけば、断られた側が、話が通っていないとは言えなくなる。通ったうえで断られた形になる。
誰にも教えていない。父にも言ったことがない。書面の癖というのはそういうところに出る。
二十年読まれる、というのは、こういうことだった。私が私だけの工夫だと思っていたものが、とうに相手の手元の一覧に載っている。
載せた人が、いま、それを私に読み上げている。読み上げるのは、脅しではない。取引の前に、こちらの持ち札を見せているだけだ。
「お褒めいただいておりますか」
「褒めております。二十年で、三代分の癖を覚えました。四代目を覚えるのに、また二十年かかります。私は、もう、二十年ございません」
男が廊下の窓の方を見た。
「役が、毎年、指名で替わるようになりますと、私は、毎年、覚え直すことになります。覚え直しの利かない年になりましたので、正直に申し上げております」
「正直に仰る方は、たいてい、正直でない場所を一つお持ちでございます」
「持っております」
「どちらでございますか」
「先月の末に、書記局の日程へ、一行入れさせました」
私は動かなかった。
「お認めになりますか」
「認めます。ただし、書面はございません。私は、日程の部屋の前を通っただけでございます」
「通っただけで、一行が入りますか」
「入る家が、あの部屋の隣にございました。あの家の書記が、私に、中継の荷の便宜を頼んできた翌週でございます」
男はその家の名を言わなかった。
言わないことで私が調べに行くかどうかを見ている。調べに行けば、そこで私の八日が消える。
「フォン・ベルク様」
「はい」
「お答えを、申し上げます」
「伺いましょう」
「私は、その役に、長くは就きません」
「なぜでございますか」
「あなたが、二十年、当家の癖をお読みになったからでございます」
男が、はじめて、わずかに眉を動かした。
「私のせい、と」
「せいではございません。おかげでございます」
「おかげ」
「一人が長く座りますと、その一人は、二十年で読み切られます。読み切られた家は、そこから先、何をいたしましても、先に読まれます。——祖父も、父も、私も、そうやって読まれてまいりました」
「読まれてまいりましたな」
「毎年替わる役は、覚え直しが利きません。それは、あなたにとって、たいそうご不便でございます」
「不便でございます」
「当家にとっては、そこが、いちばん要るところでございます」
男がしばらく私を見ていた。
それから、廊下の光の中で、一歩だけ横へ動いた。通る側へ道を空ける動きだった。
「ローゼンベルク嬢」
「はい」
「一つ、お伺いしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「姉から、お便りが、ご当家へ参りましたか」
私は、その問いにすぐには答えなかった。
答え方を選ばなければならなかった。あの一通は当家に来たものではない。書庫の一人に来たものだ。
「当家には、参っておりません」
「当家には」
「はい。当家には、参っておりません」
男が、その答えをしばらく受け取っていた。
「……結構でございます」
「結構でございますか」
「姉は、当家宛には、もう、何も書きません。三十年、そうでございました」
男が廊下を歩き出した。歩きながら、振り返らずに、一言だけ残した。
「三日後、あなたは、議場にも傍聴席にもおられません」
「傍聴席には、おります」
「おられても、お話しになれません」
「話しません」
「話さない方が、何のためにお座りになりますか」
私はその背中に答えた。
「四十七家が、私抜きで決めるところを、見るためでございます」
足音が廊下の角で止まった。止まって、そのまま、また歩き出した。
窓の光が、床の上を、また一つ分移っていた。
私は、あの方を潰さなかった。潰す材料が無かったからではない。記録院の一通も、書記局の日程も、線としては三本ある。三本あれば、当家は書面を一枚作れる。
作らなかったのは、作れば、この件が当家とあの家の話になるからだ。当家とあの家の話になれば、四十七家は、三日後に二つの家の喧嘩を採決することになる。
喧嘩の採決は、勝った方の案が通る。通った案は勝った方のものになる。
私が欲しいのは、そこではない。
三ヶ月のうちの八十五日目。あと五日ある。
姉から便りが来たか、という問いのことを階段を降りながら考えた。
あの方は姉君が誰に手紙を書いたかを、知らない。知らないまま、廊下で、私に聞いた。
当家には参っておりません、と私は答えた。嘘は申し上げていない。あの一通は書庫の一人に来たものだ。
嘘ではない答えの中に、あの方が知りたかったものは、入っていなかった。
三十年、当家宛には何も書かない姉と、二十年、当家の癖を読み続けた弟。
どうにもなりません、とヘルガ様は書いておられた。
どうにもならない、と書いた方がどうにかしようとした形跡だけは、あの二行に残っていた。
二十年で三代分の書き癖を覚えた方が、四代目を覚えるには、また二十年かかるそうでございます。
その役に、私は長くは就きません。一人が長く座りますと、その一人は、読み切られますので。
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