第八十六話 「空けた欄を、届けにも」
貴族院へ届けを出した。八十二日目の朝だった。
当家の者がヴァルナー辺境伯家へ嫁す。届け出るのは当主で、書くのは当家の者の名と、続柄と、嫁ぎ先と、家中の役。
役の欄は空けたままにした。
窓口の書記官は、また同じ方だった。今度は表題を読む前に役の欄を見た。
「空いておりますね」
「空いております」
「三度目でございます」
「三度目でございます」
書記官が判を持ち上げて、少し止まった。
「ローゼンベルク家。差し出がましいことを申し上げますが」
「どうぞ」
「この届けは、四十七家に配られます。配られますのは、明後日でございます」
「存じております」
「明後日から採決の日まで、六日ございます。六日のあいだ、四十七家は、この空欄を見ることになります」
「見ていただきます」
書記官が判を押した。押してから、帳面に一行書き足した。
書式の不備につき差し戻すべきところ、当該欄に記載し得る役が名簿に存在しないため、そのまま受理する。
私はその一行を見た。
「書記官様。それは、どなたのご判断でございますか」
「私でございます」
「帳面に、お名前が残りますね」
「残ります」
「なぜ、そこまで」
書記官が老眼鏡を上げた。
「四十年、この窓口におります。書式に合わない紙を、四十年、差し戻してまいりました。差し戻した紙のうち、半分ほどは、書式の方が古かったからでございます」
「半分ほど」
「差し戻すたびに、書式の方が悪い、と思っておりました。思っておりましたが、私の仕事は、書式の通りに差し戻すことでございます」
「今日は、差し戻されませんでした」
「今日は、名簿に無い役の話を、議場が三十分いたしました。三十分話されたものは、私の一存ではございません」
私は礼をして、窓口を離れた。
四十年、同じ場所に立っていた人が、今日、帳面に自分の名前を残した。
書式に合わない紙を、名前を出して受理する。それはこの案が落ちた場合にその一行だけが残る、ということでもある。落ちれば、名簿に無い役は名簿に無いままで、あの受理は、ただの越権になる。
この方はそこまで数えた上で、判を押した。
三日前に、私は白い紙の二枚目に、二十一行目を書いた。六つ目の役があって助かる方のお名前。書いたのは名前ではなく、書記局の受付窓口、という八文字だった。
名前を書かなかったのは、この方が名前で動く人ではないからだ。四十年、書式の側に立ってきた人が、今日だけ、書式の外へ半歩出た。半歩出た理由は、たぶん、案への賛成ではない。四十年、差し戻すたびに感じてきた居心地の悪さの方だ。
届けの写しは、明後日、四十七家に配られる。役の欄が空いた紙を四十七家が六日間、手元に置く。
その六日のあいだ、私は誰にも説明しない。
昼過ぎにハイデン子爵から使いが来た。
本日夕刻、貴族院の食堂の、いつもの席にて。ケラー男爵、ブルーメ男爵ヴァイス子爵、同席。
私が呼んだのではない。あの方が集めた。
夕方、食堂へ上がると、四人が既に座っていた。窓際の一番奥の卓を二つ繋げてある。混む時間は、とうに過ぎていた。
「ローゼンベルク嬢。勝手に、お呼び立てをいたしました」
「お集まりに、なりましたか」
「集めました。四家で話しますと、当家が取りまとめている形になります。ご当家にお呼びいただきますと、ご当家に取り込まれた形になります」
「では、この形は」
「議席が近い者が、飯を食っている形でございます」
ケラー男爵が先に口を開いた。西の家のご当主で六十を過ぎている。
「ローゼンベルク嬢。当家は、十四通でございました」
「記録院の一枚を、ご覧になりましたか」
「見ました。十四通のうち、十一通が、亡くなった弟が書いたものでございます」
男爵が卓の上で手を組んだ。
「弟は、三年前に亡くなりました。あれが書いた書面の中に、いま、こちらで引き取れないものが、二つございます」
「引き取れない、と申しますと」
「誰が約束したのか、当家では、わからないのでございます。相手方は、当家が約束したと仰る。当家の帳面には、弟の名も、役の名も、ございません」
「二つとも」
「二つとも。三年、話が付いておりません」
ブルーメ男爵が頷いた。
「当家も、九通のうち、三通が、そういう形でございます」
「三通」
「先代の代の書面でございます。誰が書いたのか、いまとなっては」
私は卓の上で指を組んだ。
六つ目の役ができても、この方々の三年前の書面は、直らない。
直らないことは先に申し上げておかなければならない。
「お二方。申し上げておくことがございます」
「伺いましょう」
「六つ目の役ができましても、過ぎた書面は、変わりません。三年前の二通も、先代の代の三通も、そのままでございます」
ケラー男爵が少し目を細めた。
「変わりませんか」
「変わりません。名簿は、明日から先の書面にしか、かかりません」
「では、当家の困りごとは、片が付きませんな」
「付きません」
卓がしばらく黙った。
ハイデン子爵が茶を一口飲んで、それから言った。
「ケラー殿。片が付かないと、いま、はっきり仰いましたな」
「仰いましたな」
「私は、そこを聞きたくて、お呼びしました」
男爵が子爵の方を見た。
「と、申しますと」
「案を通したい方は、たいてい、通れば良くなる、と仰います。この方は、通っても変わらないものを、先に仰る」
「……仰いましたな」
「私が下書きを見せていただきましたのは、五十日以上前でございます。あの時から今日まで、この方は、当家に一度も、賛成をお願いになっておられません」
私は、少し驚いた。
「子爵様」
「はい」
「お願いを申し上げていないのは、作法でございます」
「作法でも、五十日は、長うございます」
ブルーメ男爵がはじめて笑った。
「では、私から伺いましょう。ローゼンベルク嬢。当家が賛成いたしますと、当家に、何が残りますか」
「三つ残ります」
「伺いましょう」
「一つ。ご当家の書面を、どなたがお書きになったかが、明日から先、必ず残ります。三年後に、誰が約束したかで揉めることが、無くなります」
「二つ目は」
「ご当家の議席が、飛びにくくなります」
卓の四人が同時に私の方を見た。
「飛びにくく、と」
「四家のご議席は、処分で空いた席でございます。処分の理由は、突き詰めますと、誰が書いたかわからない書面を、家の名前で出していたことでございます」
「……そうでございますな」
「書いた者の名が残っておりますと、責めは、書いた者と、書かせた家督に参ります。家ごと議席を止める、という形は、取りにくくなります」
ケラー男爵が卓の上で指を一度、叩いた。
「三つ目は」
「三つ目は、当家の都合でございます」
「当家の都合、と」
「六つ目の役が名簿に載りますと、当家の者が一人、その役に就きます。就いた者は、年に九ヶ月、王都におります。——四十七家のどなたも、当家の令嬢が名簿に無い役で書面を書いている、と仰らなくなります」
卓が、少し笑った。
笑ったのはケラー男爵とブルーメ男爵の二人だった。
ヴァイス子爵は笑わなかった。ずっと、卓の端で何も言わずに座っていた。
帰り際に、その方が一言だけ言った。
「ローゼンベルク嬢。三つ目を、いちばん最後に仰いましたな」
「最後に申し上げました」
「最初に仰る方が、多うございます」
「最初に申し上げますと、残りの二つが、当家の都合の飾りに見えますので」
「……当日、私は、自分で決めます」
「そのようにお願いいたします」
食堂を出て、階段を降りながら、卓の並びを思い返した。
二つ繋げた卓の、こちら側に私が一人。向こう側に四人。四人のうち三人が、今日、自分の家の困りごとを、私の前で口に出した。三年話が付いていない二通のことも、先代の代の三通のことも、あの方々は、たぶん、四十七家の誰にも言っていない。
言えば家の中が回っていないと知られる。知られた家は、次の議事でいちばん先に数えられる側になる。
言えない話を議席の近い者同士が飯を食う形で口に出した。
この形を作ったのは、私ではない。ハイデン子爵だ。あの方は当家に取り込まれた形にも、四家をまとめた形にもならない場所を自分で探して、そこに卓を二つ置いた。
五十日前に、下書きをいちばん先にお見せした。あの時、この方は順序が残りの三家に効く、と仰った。
効き方までご自分で作られた。
三ヶ月のうちの八十二日目。あと八日ある。
屋敷へ戻る馬車の中で、白い紙の三枚目を出した。
説明を済ませておく順番。残りは二家になっていた。
届けの役の欄は、空けたまま出しました。書式に合わないその一枚を、四十年窓口に立った方が、ご自分の名で受理してくださいました。
通っても変わらないものを、先に申し上げます。過ぎた書面は、直りません。
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