第八十五話 「口頭にて、と書いてある」
七十四日目の昼に、ヴァルナー領へ入った。
月に二度の、三度目の往復になる。今回は行きの三日で馬車の中の書き物が全部片付いた。片付いたのは書くものが減ったからではない。書かなくてよいものが、増えたからだ。
町の入口でヴェルナー殿が迎えた。前と同じ場所に立っていて、前と違って、先に口を開いた。
「ローゼンベルク様。関の書面の件、当家の届けの下書きを、お持ちいたしました」
「早うございますね」
「早うございます。私が書きましたので」
「ご自分のお名前が載る届けを、ご自分でお書きに」
「ほかに書ける者がおりません。当家には、家令がおりますが、関のことは書けませんので」
馬車を降りて、下書きを受け取った。
三行だった。ヴァルナー辺境伯家は六つ目の役に副官ヴェルナーを指名する。指名の範囲は国境の通行に関する書面のみ。次に就く者として、関の門番頭の名が併せて書いてある。
三つ目の条文を、この方は下書きの段階で読み込んでいた。
「ヴェルナー殿。次に就く者まで、お書きくださいましたね」
「条文にございましたので」
「反対しておられた、と伺いました」
「反対いたしました」
「いまも」
「いまも、気は進みません」
ヴェルナー殿が下書きの三行目を指した。
「ただ、この一行を書きます時に、門番頭の顔を思い出しました。あれは、私より十も若い男でございます。私が明日、馬から落ちましたら、あの男が関に立ちます」
「立ちます」
「立ちますが、あの男の名は、いまは、どこにも無い。私が落ちた翌日から、あの男が通した荷の責めは、誰のものになるのか。……考えたことが、ございませんでした」
私は下書きを畳んだ。
反対していた人が、反対の理由の中から、賛成の理由を見つけている。この形をこの二十日で、私は何度か見た。
午後、カイと二人で、北の湧水へ上がった。
道の脇の木は前に来た時よりも葉が濃くなっていた。季節が、また半段進んでいる。
湧水の脇で、カイが馬を止めた。
「アリシア。目録の一行目の件でございます」
「北の湧水の水利」
「次の代の当主同士で、口頭にて、と書いてございました」
「書いてございました」
「今日、いたしましょう」
私は少し止まった。
「私は、当主ではございません」
「私も、次の代でございます。当家の当主は私ですが、ご当家の当主は、まだ、お父上でいらっしゃる」
「では、片方だけでございます」
「片方だけでございます。ただ、目録には、両家の当主が、とは書いてございません。次の代の当主同士で、と書いてございます」
私は目録の写しを鞄から出した。
次の代の当主同士で、口頭にて。
祖父の字だ。書いた人は十年前に亡くなっている。読む人がどう読むかを書いた時点で、決められない。
「カイ。祖父は、これを、どういう意味で書いたと思われますか」
「二つに読めます」
「伺います」
「一つは、次の当主同士が、口で決めればよい、という意味。もう一つは——書面にしないことで、次の代に、断る余地を残した、という意味」
「断る余地」
「書面にしてしまえば、次の代は、それを引き継ぐしかございません。口頭にしておけば、次の代が、その話を持ち出さないという選び方も、できます」
「では、私たちは、いま、持ち出しております」
「持ち出しました。持ち出したのは、私です」
湧水の音が二つの音でできていた。水流の音と、土を伝う音。
「カイ」
「はい」
「水利のお話を、伺います」
カイが湧水の脇の石を指した。
「この湧水は、当家の領内から出て、南へ流れて、王国側の三つの村を通ります。三つの村のうち、二つが、ご当家の領内でございます」
「存じております」
「十年前まで、渇水の年には、当家が、上で水を止めておりました。止めれば、当家の畑が助かります。下の二つの村は、その年、収穫が三分減ります」
「止めておられましたか」
「父の代までは。私の代では、一度も止めておりません」
「ご理由は」
「父と、ご当家のお祖父様が、口頭で、決めておられたからでございます」
私は湧水の水面を見た。
「決めておられた」
「渇水の年には、上で止めず、下で分ける。分け方は、その年に、両家の当主が、口で決める。——書面には、いたしませんでした」
「なぜ」
「書面にいたしますと、水の量が、書面の数字になります。数字になりますと、その年の雨の降り方と、合わなくなります」
「合わない年に」
「合わない年に、書面の通りにいたしますと、どちらかの家が、必ず、間違ったことをした形になります」
私は少し黙った。
書面にできないものが、この国には、まだいくつもある。関の見分けも、水の分け方も、書けば必ず、書いた通りにならない年が来る。
書けないものを、二つの家が、十年、口だけで守ってきた。守っていた二人が、同じ冬に亡くなった。
その冬から、目録の一行目は丸が付かないままになっている。
「カイ。ご当主として、私に、お伝えくださいませ」
カイが、馬を降りた。私も降りた。
湧水の脇に、二人で立った。
「渇水の年には、上で止めません。下で分けます。分け方は、その年に、当主同士で口で決めます」
「承りました」
「ご当家からは」
「同じことを、申し上げます。渇水の年には、上で止めていただかなくて結構です。下で分けます。分け方は、その年に、口で決めます」
カイが頷いた。
「これで、片方でございます」
「片方でございます。父には、帰りましたら、お伝えいたします」
「お父上が、否と仰せになりましたら」
「その時は、今日のことは、無かったことになります」
「無かったことに、してよろしいのですか」
「いたします。口頭というのは、そういうものでございます。書面にしなかった祖父は、たぶん、そこまで含めて、書かなかったのだと存じます」
湧水の音が、しばらく続いた。
二人ともしばらく何も言わなかった。言わないでいることがこの場所では、いちばん自然だった。
「アリシア」
「はい」
「もう一つ、当家の記録から、出てまいりました」
カイが上着から一枚の紙を出した。
辺境伯家の、十年前の物品の控えだった。
その中に、一行、赤い印が付いている。
王都、ローゼンベルク家へ。額装一。図柄、王都南の橋。父の署名にて預ける。返却時期、先方の家の事情の落ち着き次第。
「額装一」
「はい」
「王都の、南の橋」
私は、その一行を、二度読んだ。
書庫の北の壁の下段。四つ並んだ木箱の、右から二つ目。あの箱に、額が二つ入っていた。
一つはヴァルナー領の北の湧水。祖母が描いた絵だ。
もう一つは、王都の南の橋。
誰が描いたかを、私は、あの日、確かめなかった。祖母の絵を探しに行って、祖母の絵を見つけたので、もう一枚の方は、そのまま箱に戻した。
箱に戻したものの裏に、祖父の紙束があった。紙束の方に気を取られて、額の一つ目の方を、私は最後まで見ていない。
「カイ」
「はい」
「その額は、当家の書庫にございます」
「ございますか」
「ございます。十年、木箱の中に」
カイが、控えの紙を畳んだ。
「では、返却の時期でございますね」
「先方の家の事情が落ち着き次第、と書いてございます」
「ご当家の事情は」
私は湧水の音を聞いた。
「落ち着きましたのは、たぶん、まだでございます。落ち着きますのは、十四日後かと存じます」
「採決の日でございますか」
「その前の日でございます」
カイが、はじめて、私の方を見て、少し笑った。
「では、その日に、お返しいただきます」
「お持ちいたします。婚儀に、荷を一つ増やしますことを、お許しくださいませ」
「増やしていただいて、結構です」
三ヶ月のうちの七十五日目。あと十五日ある。
夜、駐屯所で目録の写しを出して、一行目の脇に丸を付けた。
十九行のうち、十八行に丸が付いた。
残りは、一行だけになった。
目録の一行目は、書面にせず、口だけで果たしました。数字にいたしますと、雨の降り方と合わない年に、どちらかが必ず違反した形になりますので。
もう一枚の額は、当家の書庫の木箱に、十年ございました。お返しするのは、婚儀の日でございます。
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