第八十四話 「王家の、順番待ち」
七十日目の夕方、また東棟の小書斎に呼ばれた。
三度目だ。部屋は同じで椅子は今日も二脚だった。
「ローゼンベルク嬢」
「殿下」
レオン殿下が、机の上に前と同じ書式の紙を置いた。今度は印が押してある。
「押されましたね」
「押しました。本日付でございます」
「では、書面でございます」
「書面でございます」
表題は前と同じだった。王位継承順位に関する、当面の取り扱いについて。
中身は、増えていた。
ライナルト殿下は第三継承順位のまま、謹慎を継続。公務には出さない。ここまでは前と同じだ。
その下に二行増えていた。
継承順位に在る者のうち、公務に出ない状態が一年を超えた者については、その者の順位を停止する手続きを、別に定める。
別に定める、の下に日付が入っている。来年の春。
「殿下。別に定める、というのは」
「まだ、何も定まっておりません。定める、とだけ決めました」
「定める、とだけ、でございますか」
「はい。中身を決めるのは、来年の春でございます」
「では、この書面は、何をなさったことになりますか」
殿下が机の上で指を組んだ。
「日を、決めました」
私は紙の余白を見た。
中身の無い決定に日付だけが入っている。
中身が無いから、いま誰も反対できない。反対する材料がまだ紙の上に無いからだ。日付だけが先に決まると、その日までに中身を作らなければならなくなる。作る側に期限が生まれる。
「殿下。これは、貴族院の名簿の話を、混ぜておられませんね」
「混ぜておりません。お約束いたしました」
「一言も、書いてございません」
「一言も書いておりません。ただ——」
殿下が紙の下の余白を指した。
「来年の春までに、貴族院の名簿に六つ目の役が載っておりましたら、その形を、王家の方でも使えます」
「載っておりませんでしたら」
「使えません。その時は、別の形を、一から考えます」
「一からお考えになりますと、どれほどかかりますか」
「父上の代では、間に合わないと存じます」
私は紙を机に戻した。
この方は私の案が通るかどうかに王家の来年の春を賭けている。賭けているのに、手伝わない、と陛下が決めておられる。手伝えば案が落ちるからだ。
賭けている人がいちばん何もできない。
「殿下。一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「兄君は、この書面を、ご覧になりましたか」
殿下がしばらく何も言わなかった。
「見せました」
「ご覧になって」
「兄上は、一度だけ、お笑いになりました」
「お笑いに」
「私が十六の年に、兄上が仰ったことがございます。この国は、人を並べる規則ばかり作って、並びから外す規則を作らない、と」
「兄君が、そう仰せに」
「仰せになりました。当時、私は、意味がわかりませんでした」
殿下が書面を封筒に戻した。
「兄上は、ご自分が並びから外れられないことを、あの婚約破棄の日より、ずっと前からご存じでいらした、ということでございます」
私は膝の上で手を組んだ。
あの舞踏会の夜。あの方は私を断罪した。私は書面で返した。あの方は失脚し、第三継承順位まで下がって、いまも並びの中にいる。
あの日の私は、あの方を、規則を知らない人だと思っていた。
規則を知っていて、抜ける道が無いことを知っていて、それでも、あの夜に、あの場所であんなことをなさった。
どちらの方が、救いが無いのかは、わからない。
あの夜のことを、私は長く、私の話として持っていた。私が断罪され、私が返し、私が勝った夜として。
勝った夜のことは、たいてい、勝った側の話になる。負けた側がその夜の前に何を知っていたかは、勝った側の話には入らない。
入らないまま、月日がたった。入っていなかったものが、いま、書面の二行の下から出てきている。
人を並べる規則ばかり作って、並びから外す規則を作らない。あの方がそれをご存じだったのなら、あの夜私を並びから外そうとなさった時、ご自分は外れられないことも、ご存じだったことになる。
「殿下」
「はい」
「兄君は、いま、何をなさっておいでですか」
「書いております」
「書いて」
「謹慎の間に、王国の継承の規則を、三代前まで遡って、写しておられます。誰にも頼まれておりません」
「お一人で」
「お一人で。写した紙は、誰にもお渡しになりません。部屋の隅に、積んでおられます」
私は東棟の窓の方を見た。
名簿から抜ける手筋が無い、と教えてくれたのは、この方だった。教えてくれた話の真ん中に、書き写しを続けている人がいる。
その紙の束は、誰にも渡らない。渡す道が無いからだ。
三十年、書庫で一人で抱えていた方のことを思い出した。あの一通も渡す道が無かった。
人の中に溜まったものはその人がいなくなる日まで、誰の目にも触れない。
「殿下」
「はい」
「兄君がお写しになっている紙を、いつか、記録院で預かることは、できますでしょうか」
殿下が顔を上げた。
「兄上の、私的な写しでございます」
「私的な写しでございます。ですから、いま、お預かりはできません。ただ——来年の春に、順位を停止する手続きをお作りになる時に、三代前まで遡った写しが手元にございましたら、作る方は、たいそう助かります」
「助かります」
「助かる紙を、書いておられる方がおられます。それを、書いておられる方に、お伝えいただけますか」
殿下がしばらく私を見た。
「……お伝えして、よろしいのですか」
「よろしいかどうかは、私には決められません。私が申し上げられますのは、書いたものが要る場所が、来年の春にできる、ということだけでございます」
「その場所に、兄上の名前は、出ますか」
「出ません。写しは、写した人の名では残りません。ただ、写しが無ければ、間に合わない、というだけでございます」
殿下が封筒を持ち上げた。
「ローゼンベルク嬢。あなたは、兄上を、お許しになりましたか」
「許しておりません」
「即答でございますな」
「許すという言葉を、私は、まだ、どこに置けばよいかわかりません。ただ、書いたものが要るかどうかは、許すかどうかとは、別の勘定でございます」
「別の勘定」
「はい。別の勘定を、同じ紙に書きますと、たいてい、どちらも間違えます」
殿下が立ち上がった。
「六日後に、最終審議でございますね」
私は日を数え直した。最終審議は、十八日後だ。
「殿下。十八日後でございます」
「……失礼いたしました。私の方が、待ちくたびれております」
東棟の階段を降りて、外へ出た。
外はもう暗くなり始めていた。王宮の門まで歩くあいだに東棟の三階の窓に一つだけ灯りが点いた。
あの階の一室に写しの束が積まれている。誰にも渡らない紙が、毎日少しずつ厚くなっている。
私は、その紙を来年の春に使うつもりでいる。使うつもりでいることを、書いている当人に伝える道が、いま、一本だけできた。
道ができたからといって、あの方が渡すとは限らない。渡さないことも、あの方の自由だ。
ただ、渡す先が無い、という状態だけは、今日で終わった。
王家の名簿は貴族院の名簿の順番を待っている。待っているあいだ、待っている側は、何もできない。
私も、あの三日、何もできない。
できない者が二人、別々の場所で、同じ日を待っている。
待っているあいだにできることを、私は六十日かけて、先に済ませてきた。殿下は王家の書面に日付を一つ入れた。日付を入れる、というのは待っている側にできる、たった一つの手だ。
入れた日付は、来年の春。私の三日は、あと十八日。
どちらもその日が来るまで、動かせない。動かせないものを持っている人は、たいてい、その日までのあいだに余計な手を打ちたくなる。
打たない、と決めることの方が、難しい。
三ヶ月のうちの七十日目。あと二十日ある。
屋敷に戻って、玄関を通る時に、苗の方を先に見た。いつからそうしているかは、思い出せない。前にこの家へ来た人が、そうしていた。
王家の書面に、日付だけが入りました。中身は来年の春に定めます。日を先に決めますと、作る側に期限が生まれます。
謹慎のお部屋で、継承の規則を三代前まで写しておられる方がおいでです。写しは、写した方のお名前では残りません。
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