第八十二話 「三ヶ月前から、でございます」
五十五日目からの一週間で、四十七家のうち二十九家が動いた。
私は、そのうち三家にしか会っていない。
残りの二十六家は私が会いに行く前に自分の家の数字を見ていた。
数字を出したのは記録院だった。
半月前、ルーカス・ハルトが記録院に一つ、新しい取り扱いを作った。家の当主または家督から請求があれば、その家の書面について、過去二年の内訳を一枚にして出す。家督本人の署名は何通、家督代理は何通、後見は何通、代訴人は何通、そして——役の名が無くお名前だけのものは、何通。
当家が四十日前に記録院で数えてもらったものと、同じ数え方だ。
違うのは数えるのが当家ではなく、それぞれの家だという一点だけだった。
この一枚は賛成も反対も書いていない。案の話も出てこない。ただ、自分の家の書面の三十七分が名簿にある役の署名でないことが、数字で並ぶ。
説明の要らない紙だった。
最初に請求したのはシュタイン子爵家だ。子爵は請求した翌日に、記録院の一枚を古い側の五家へ回した。回された五家がそれぞれ請求した。請求した家の数字はどこも似ていた。似ている数字を見た家は自分の家だけの問題ではない、と知る。
私が会った三家は、どこも、記録院の一枚を先に読んでいた。
一家目では、当主が数字の紙を机の上に置いたまま私に一つだけ聞いた。この三十七分を誰が書いていたのか当家では誰も答えられない、と。答えられないのが問題なのだと、その方は自分で言った。私は何も足さなかった。
二家目では、ご当主ではなく、書面を実際に書いている方が同席していた。その方は最後まで一言も話さなかった。帰り際、玄関で名簿に自分の名が載るかどうかだけを聞かれた。載ります、と答えた。載れば、書き損じの責めも、私に参りますか、と聞かれた。参ります、と答えた。その方は、頷いて、それで終わりだった。
三家目は、話が三十分で終わって、あとの一刻は庭の話をした。
説明というのは案の中身を話すことだと思っていた。実際に要ったのは、数字を見た人がその数字について何か言う場に当家の者が一人座っていることだけだった。
六日目に、四十七家のうち三十一家が請求を出した、とルーカスから報せが来た。
午後、ハイデン子爵と、貴族院の食堂で会った。混む時間を外した席は前と同じ窓際の一番奥だった。
「ローゼンベルク嬢。当家も、記録院に請求いたしました」
「ご当家は、名簿に無い役の書面が、一通もございませんでしたね」
「一通もございません。ゼロと書かれた紙が、参りました」
子爵がその紙を机に置いた。
「これが、いちばん効きました」
「ゼロの紙が、でございますか」
「ゼロの紙を、ケラー男爵とブルーメ男爵に、お見せいたしました」
私は少し驚いた顔をした。
「お二方は、なんと」
「羨ましい、と仰いました。それから、当家は何通だろう、と仰って、その日のうちに請求なさいました」
「請求なさいましたか」
「ケラー男爵家は、十四通でございました。ブルーメ男爵家は、九通」
「お二方は」
「ご自分の家の数字をご覧になってから、はじめて、あの案の中身をお読みになりました」
子爵が茶を一口飲んだ。
「ローゼンベルク嬢。順序が、逆でございますな」
「逆でございますか」
「案を読んでから、自分の家を数えるのが、普通でございます。自分の家を数えてから、案を読む。——そうなりますと、案は、他家のお話ではなくなります」
「はい」
「これは、いつからのご準備でございますか」
私は茶碗を置いた。
「三ヶ月前から、でございます」
子爵が少しだけ黙った。
「三ヶ月前と申しますと」
「陛下のお召しが来ました日から、数えております。あの日に、記録院で数えていただくことを、決めました。数えるのを、当家だけでなく、どの家でもできる形にしておいていただけないか、と記録官長にお願いいたしましたのは、その次の日でございます」
「四十日以上、前でございますな」
「四十日前に頼んだものが、いま、効いております。今日お願いいたしましても、間に合いません」
「間に合いませんな」
「間に合うことだけを、間に合う時期に、頼んでおきます。それだけでございます」
子爵がゼロと書かれた紙を丁寧に畳んだ。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「当家に、いちばん先に下書きをお見せくださいました。あれも、ご準備の一つでございましたか」
「準備でございました」
「正直に仰る」
「隠しますと、次にお願いを申し上げます時に、子爵様が私を疑いながら聞くことになります。疑いながら聞かれますと、話が三倍かかります」
「三倍」
「三倍でございます。私には、あと三十日しかございません」
子爵が、はじめて、声を出して笑った。
夕方、記録院からもう一つ報せが来た。
コーデルの商業評議会から、書面が一通、外交府経由で届いた。表題は王国貴族院の役職名簿の改定があった場合の、当方の書面の取り扱いについて。
賛成とも反対とも書いていない。六つ目の役が名簿に載った場合、評議会は王国の書面を役の名で照合したうえで受理する。載らない場合は、これまで通り役の名の無い書面も受理する。それだけが書いてある。
これまで通り、という言葉の意味を外の国と商いをしている十一家は、正確に読む。
これまで通り、というのは港でこちらの荷が止まるかどうかがこれまで通り、相手の判断次第だ、ということだ。
書面の下の方に議事の日付と、出席者の名が並んでいた。
副議長グルゼマン伯。
あの方はその議事の場にいた。私信で賛同を書いた立場で評議会の卓に着き賛成とも反対とも書かない書面に、副議長として名を連ねている。
名を連ねた以上、この件で、もう、私信は書けない。
書斎に戻って、白い紙の三枚目を見た。
採決日までに説明を済ませておく順番。この紙に書いた家は二十二家あった。
そのうち、私が実際に会ったのは、六家だ。
残りの十六家は記録院の一枚と、コーデルの一枚と、当家の書面が回った。
説明は人が行くものだと思っていた。行かなくても済む形にしておく方が、早い。
三ヶ月前から、と子爵に答えた時、自分の言葉が少しだけ他人の言葉のように聞こえた。
この句を、私は十年、当家の中でだけ使ってきた。舞踏会の夜に殿下が私を断罪なさった時も同じことを申し上げた。あの時は、三ヶ月かけて集めた書面が全部私の手の中にあった。手の中にあるものを一枚ずつ出して、その場で勝った。
今度は手の中に何も無い。
記録院の一枚は記録官長のものだ。コーデルの一枚は評議会のものだ。ゼロと書かれた紙はハイデン子爵家のものだ。どれも、私が持ち出せる紙ではない。
私がしたのはその紙が生まれる場所を四十日前に一つずつ用意しておいた、というだけだった。
用意したものが私の手を離れて働いている。手を離れたものは私が倒れても止まらない。
三ヶ月前から準備する、というのは、たぶん、そちらの意味だった。十年、私は前半分しか使っていなかった。
三ヶ月のうちの六十一日目。あと二十九日ある。
紙を裏返して、残りを数えた。まだ会っていない家は、二十五。そのうち、会わなくてよい家が、たぶん十五。
どうしても会わなければならない家は、十。
三十日で十家なら、間に合う。
間に合う、と思った時にいつも一度だけ数え直すことにしている。間に合うと思った人が数え落とすのは、たいてい、いちばん近い場所だ。
いま効いておりますのは、四十日前にお願いしたものばかりでございます。今日からお願いできることは、この件には、もうございません。
各家がご自分の数字をご覧になってから、案をお読みになります。そうなりますと、案は、他家のお話ではなくなります。
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