第八十一話 「一人と、話がしたい」
五十一日目の午後、ヴァイス子爵が、当家に参られた。
先触れは、一刻前だった。作法としては、失礼にあたる短さだ。短くしたのはこちらに支度をさせないためではなく、ご自分が引き返せないようにするためだろう、と私は思った。
応接室に通した。お茶は、出させなかった。この方が座って三十秒で用件を言う人だと、読会で見ていた。
「ローゼンベルク嬢」
「子爵様」
「本日は、賛成を申し上げに参ったのではございません」
「存じております」
「なぜ、ご存じでいらっしゃいますか」
「賛成のお方は、先触れを一刻前になさいません」
ヴァイス子爵が口元をわずかに動かした。読会で見た顔より、疲れて見えた。
「読会で、当家は、あなたのお輿入れの話をいたしました」
「いたされました」
「あの二点目は、私が考えた質問ではございません」
私は膝の上で指を組んだ。
「渡されたものでございますか」
「渡されました。この一月に、北の宿場で」
「鉱山の中継の」
「ご存じでいらしたか」
「当家の者が、子爵様のこの一月のお動きを調べました。宿場に三日、とだけ」
「調べられて当然でございます。私も、同じことをいたします」
ヴァイス子爵が上着の内から一枚の紙を出した。折り目が四つ付いている。何度も開いて、また畳んだ紙だ。
「これを、渡されました。読会で使う質問の案でございます。二点、書いてございます」
私は受け取らなかった。
「お読みいただかなくて結構でございます。中身は、当日、私が申し上げた通りでございますので」
子爵が紙を膝の上に置いた。
「渡した方は、こう仰いました。この二点を出せば、案は、その日のうちに止まる、と」
「止まりませんでした」
「止まりませんでした。あなたが、翌々日に、ご自分の婚儀の日取りから書いた書面を出されましたので」
「あの書面を、お読みになりましたか」
「読みました。読んで、三日、考えました」
子爵がはじめて椅子の背に体を預けた。
「私は、あの日、あなたに勝つつもりで立ちました。勝てるはずでした。書いていない場所を突くのは、いちばん確かな手でございますので」
「確かでございます」
「突いた翌々日に、突かれた家が、その場所を条文にして出してくる。——私は、こういう返し方を、見たことがございません」
「褒めていただいておりますか」
「困っております」
私は待った。
この方のことをリゼットが調べてきた分だけ、頭の中に並べた。ヴァイス子爵家は王都の家で、代々王宮の出入りの商いに近いところにいる。爵位は軽く、領地は無い。空いた議席に座ったのは、断る力が無かったからだ、と町では言われている。
断る力が無い家に、人は物を渡しやすい。渡した物を、あとで、渡した側の都合で返させられる家でもある。
この方は、三日考えて、渡した側ではなく、渡された話を持って、当家の応接室に座った。座ったこと自体が、この方の一手だった。
「私は、あの案に反対しておりました。家督の否定になる、と思っておりました。ハイデン子爵と同じ理由でございます」
「いまも、そうお思いでいらっしゃいますか」
「いまは、別のことを考えております」
子爵が膝の上の紙を、指で一度、押さえた。
「渡した方が、なぜ、あの案を止めたいのか——それを、考えております」
「お聞きになりましたか」
「聞きました。三日目の夜に、酒の席で。あの方は、こう仰いました」
私は動かなかった。
「ローゼンベルク家のご令嬢が国境の窓口でいらっしゃる限り、話は、お一人と付けられる。名簿に六つ目の役ができて、誰が座っても務まる役になれば——話す相手が、毎年、替わる」
窓の外で庭師が鋏を置く音がした。
「替わる相手とは、二十年の仕込みができない、と」
私はしばらく黙っていた。
黙っていたのは、驚いたからではない。予想していた形と、あまりに正確に同じだったからだ。
あの方は私を敵として潰そうとしていない。
私を残そうとしている。
一人の有能な令嬢として、国境の窓口にずっと座らせておきたい。座っている限り、その一人を読み切れば、話が付く。読み切るのに二十年かけられる相手は、そういう相手だけだ。
「子爵様」
「はい」
「そのお方は、私を、たいそう高くお買いになっておられます」
「買っておられます」
「買っていただいた分だけ、私が座り続けることを、お望みでいらっしゃる」
「そういうことに、なりますな」
「では、いちばん効くお返しは、私が座らなくなることでございますね」
ヴァイス子爵がしばらく私の顔を見た。
「……あなたは、それを、平気で仰る」
「平気ではございません」
「平気ではない、と」
「十年、座ってまいりました。座っていたから、当家の書面が止まりませんでした。座らなくてよい形を作る、というのは——十年分の私を、要らないものにする、ということでございます」
「では、なぜ」
「要らないものにできる時期に、たまたま、私が座っているからでございます」
子爵が膝の上の紙を、もう一度畳み直した。
「ローゼンベルク嬢。私は、まだ賛成とは申しません」
「結構でございます」
「よろしいのですか」
「本日ご賛成いただきますと、子爵様は、渡された紙を持ったまま賛成なさったことになります。それは、後で、子爵様のお首を絞めます」
「……絞まりますな」
「採決の日に、ご自分のお考えで、お決めくださいませ」
「その日までに、私は、何をすればよろしいか」
「その紙を、お捨てにならないでくださいませ」
子爵が顔を上げた。
「捨てるな、と」
「はい。お捨てになりますと、渡されたという事実だけが、宙に残ります。宙に残ったものは、後で、渡した方の言い分で、形が変わります」
「持っておりますと」
「持っておられます限り、形は変わりません」
子爵が紙を内ポケットに戻した。
立ち上がる時に、一つだけ、付け足した。
「一つ、申し上げておきます」
「伺います」
「あの方は、私にこうも仰いました。この案は、どのみち、採決の日に間に合わない、と」
「間に合わない」
「はい。ご当家には、その日、説明できる者が一人もいない、と」
玄関で見送った。
馬車が門を出るまで、この方は一度も振り返らなかった。振り返らない人は来たことを後悔していない人だ。
二十年の仕込み、という言い方が、耳に残っていた。
祖父は二十年前の秋に二度の申し入れを断った。断られた側は、それから二十年をかけて、断った家の外側に回り込んだ。姉を通して商業評議会に血を入れ、甥を副議長の席まで運び、王国側では名簿に無い役の欄に自分の名前を書ける場所を作った。
二十年かけられるのは、相手が変わらない場合だけだ。当家は、変わらなかった。祖父の家であり、父の家であり、いまは私が書面を書く家だ。同じ家の、同じ書き方の癖を二十年読めば、たいてい読み切れる。
読み切られていた、ということを私は今日はじめて知った。
知って、腹が立たなかった。腹が立たない理由も、わかっている。私も同じことをしてきたからだ。オーステン侯爵の書き癖を、私は半年で読んだ。読んで、廊下で待つしかない人にした。
私は書斎へ上がった。
白い紙の三枚目——採決日までに説明を済ませておく順番——を、机の中央に置いた。
その日に説明が要る案は、その日に落ちる。落ちない案はその日より前に全部の説明が済んでいる。
あの方は私が議場にも傍聴席にもいない日を選んで、日程に一行入れた。入れた時点でこちらが婚儀を動かすことまで読んでいた。読んで、一日だけ動かすところまでは、たぶん読んでいない。
ただ、一日動かしても、私が説明できないことは変わらない。傍聴席は口を開く場所ではない。
だから、説明はその日より前に済ませておく。
済ませておく相手の数は、四十七。
残りは、三十九日。
三ヶ月のうちの五十一日目。
私は白い紙の三枚目の、いちばん上の行にはじめて名前を書いた。
ヴァイス子爵。四十七家のうち、いちばん最後に説明する家。
いちばん最後にする理由は、一つだった。この方だけが渡された紙を持っている。
あの方は、私を潰したいのではございませんでした。国境の窓口に、私一人を座らせておきたいのでございます。
いちばん効くお返しは、私が座らなくなることでございます。説明は、採決の日より前に、四十七家すべてへ。
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