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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第七十八話 「三十年遅れの、お返事」

 書庫の下の階から、アルブレヒトが上がってきた。四十二日目の、まだ朝のうちだった。


 この方が屋敷の階段を上がってこられるのは、めずらしい。用があれば、たいてい書庫で待っている。


「お嬢様。お手紙が、参りました」


「どちらから」


「コーデルからでございます。商会の便ではなく、個人の便で」


 私は筆を置いた。


 差出人の名を聞く前にわかった。


「ヘルガ様、でございますね」


「はい」


 アルブレヒトの手の中で、封筒がわずかに動いた。指が震えているのではない。持ち替えを何度もしている手つきだった。


「お読みになりましたか」


「まだ、でございます」


「では、書庫でお読みくださいませ。私は、ここに」


「お嬢様」


「はい」


「ご一緒に、いていただけませんか」


 私は少し驚いた顔をしたと思う。


「私は、お手紙を運ぶお手伝いをいたしましただけでございます。中身のお話に、私が入るべきではございません」


「入っていただかなくて、結構でございます。ただ、部屋に、どなたかに、いていただきたく」


「お一人でお読みになるのが、お辛うございますか」


「三十年、一人で持っておりました。持っている分には、慣れました。開くのは、慣れておりません」


 書庫に降りた。


 階段の途中で、この方が三十年この屋敷にいる、ということをあらためて数えた。私が生まれる前から、ここで書棚を見ている。祖父の代の紙も、父の代の紙も、この方の手を一度は通っている。


 通った紙のことは、全部覚えておられる。覚えているのに、ご自分の一日のことだけは、三十年、誰にも話していない。


 北の壁の下段の木箱は、四つとも、あの朝のままの位置にある。窓は高いところに一つだけで朝は光が斜めに入る。


 アルブレヒトは机の椅子ではなく、書棚の脇の低い腰掛けに座った。三十年、この方が座ってきた場所だ。


 封を切る音が思っていたよりも大きかった。


 便箋は一枚だった。


 アルブレヒトが読み始めて、途中で一度、紙を膝の上に下ろした。それから、もう一度持ち上げて、最後まで読んだ。


 読み終えて、しばらく、紙を膝の上に置いたままにしていた。


「お嬢様」


「はい」


「お読みいただいて、よろしゅうございますか」


「よろしいのですか」


「私が三十年、わからなかったことが、書いてございました。わからないままにしておいた方がよいものかどうか、私には、もう、判断がつきません」


 私は便箋を受け取った。


 字は、細く、行の間が狭かった。何度も書き直した人の字ではない。一度で書いた字だった。


 お詫びのお便り、確かに頂戴いたしました。


 三十年、お返事を差し上げませんでしたことを、まず、お詫び申し上げます。


 あの日、封蝋を見せてほしいと申しましたのは私の一存ではございません。父にそう申しつけられておりました。


 ただ、あなた様に父に申しつけられた、とは申しませんでした。申しますと、あなた様がお断りになると思ったからでございます。お断りになれば、父は別の手を使ったでしょう。別の手はあなた様のお立場をもっと悪くいたしました。


 ですから、私が見たいのだ、と申しました。


 私が見たいのだ、と申しましたので、あなた様は私に見せてくださいました。


 その一段を、私は三十年、誰にも申しておりません。


 あなた様がご自分の作法の話だと思っておられることを、私は存じておりました。存じていて、三十年、そのままにいたしました。


 私はあなた様を庇ったつもりでおりました。


 庇ったつもりのものがあなた様の中で、三十年、ご自分の落ち度になっておりました。


 どちらがお詫びを申し上げるべきかは、もう、わかりません。


 わからないままに、一つだけ、申し上げます。


 あの日、あなた様は私を疑いませんでした。疑わなかった方が、三十年、ご自分を疑っておられました。


 私は疑われた方がよかったのでございます。


 便箋は、そこで終わっていなかった。


 最後に、二行あった。


 弟のことは、私には、もう、どうにもなりません。あの子は、父の書棚をいちばん長く読んだ子でございます。


 このお便りにお仕事のお話は、書きません。


 私は便箋をアルブレヒトに返した。


 返してから、しばらく、二人とも何も言わなかった。窓から入る光が書棚の背表紙の上を少しずつ下へ動いていた。


「お嬢様」


「はい」


「三十年、私は、一つの日のことを、考えてまいりました」


「はい」


「考えていた日の中に、あの方が、おられませんでした」


「おられません、と申しますと」


「私は、私が何をしたかを、三十年、数えておりました。あの方が、あの日、何をなさっていたかを——考えたことが、ございませんでした」


 アルブレヒトが便箋を丁寧に折った。


「お嬢様。三十年前、私は若うございました。若い者は、自分の落ち度を、たいそう大事に持ちます」


「大事に」


「大事に持ちますと、他の方の落ち度を、置く場所が無くなります。置く場所が無いと、他の方が、そこにおられたことも、消えてまいります」


 私は机の上の木箱の一つに手を置いた。


「お返事を、お書きになりますか」


「書きます」


「お仕事のお話は」


「書きません。あちらが、書いておられませんので」


「お詫びだけ、でございますね」


「お詫びも、もう、書きません」


 アルブレヒトが立ち上がった。


「三十年遅れのお詫びに、三十年遅れのお返事を頂戴いたしました。これ以上、遅れたものを重ねますと、お互いに、遅れた分の話しか、できなくなります」


「では、何をお書きになりますか」


「書庫の窓から、今朝、何が見えたかを」


 アルブレヒトが腰掛けを元の位置へ戻して、書棚の間へ入っていった。


 私は書庫に一人で残った。


 北の壁の下段の木箱に、もう一度、手を置いた。この中の額の裏に祖父の紙束があった。祖父は二十年前の一行を誰にも渡さずに、額の裏へ置いた。置いたものは、十年、そこにあった。


 抱えた人が違うだけで、形は同じだ。祖父は紙に、アルブレヒトは自分の中に。どちらも次の代へ渡す道が無かったから、置ける場所へ置いた。


 渡す道というのは渡す気持ちのことではない。渡す先の役の名のことだ。


 この一通は、三十年、届かなかったわけではない。届く道が無かったわけでもない。ただ、間に立った人が誰もいなかった。


 三十年前の当家にはこういう一通を扱う役が無かった。無いから、預かった者の中に留まった。人の中に留まったものはその人が抱えている限り、誰の目にも触れない。触れないものは、直せない。


 仕組みが無いと、物事は人の中に溜まる。


 溜めた人がいなくなる日まで。


 夕方、父の書斎へ上がって、ヘルガ様のお便りが届いたことだけを伝えた。中身は伝えなかった。


 父は、そうか、とだけ言った。


「アリシア」


「はい」


「お前は、あれを読んだか」


「読ませていただきました」


「読んで、何を思った」


「三十年前の当家に、預かった手紙を扱う役が、無かったのだと思いました」


 父が書類の角を揃えた。


「無かったな」


「いまも、ございません」


「いまも無い」


「六つ目の役ができましても、そこは、埋まりません」


「埋まらん」


「では、何が変わりますか」


 父が少し黙った。


「一人が三十年抱えたものが、三十年経ってから出てくる、という形は、変わらん。ただ——三十年、誰も聞かなかった、という形の方は、変えられる」


 私は頷いた。


 書斎に戻って、白い紙の二枚目を見た。六つ目の役があって助かる方のお名前。


 三ヶ月のうちの四十二日目。あと四十八日ある。


 その紙にアルブレヒトの名前は書かない。


 この方が助かるのは名簿の話ではなかった。

 三十年前、庇ったつもりのものが、庇われた方の中で、ご自分の落ち度になっておりました。どちらがお詫びを申し上げるべきかは、もうわかりません。

 お返事には、お仕事のお話も、お詫びも書かないそうでございます。書庫の窓から、今朝、何が見えたかを。


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