第七十七話 「安定を、必要としている側」
三十八日目の午後、シュタイン子爵家から、ベルナーが参った。
弁明の七日のあいだ、この方は何度も当家の応接室に座った。座り方が当時と同じだった。背を椅子に付けず、書面を膝の上で開かずに持つ。
「ローゼンベルク様。子爵より、二つ、申し伝えでございます」
「伺います」
「一つ目。名簿改定の案について、シュタイン子爵家は、賛成でございます」
私は一度、目を上げた。
「早うございますね」
「早うございます。子爵は、第一読会の翌日にお決めになりました」
理由もベルナーがそのまま伝えた。シュタイン子爵家では、三代前から、書面を書く者と署名する者が別になっている。書く者に役の名は無い。子爵はそれを当家の作法だと言ってきたが、先日の読会を傍聴して、作法ではなく、ただの穴だと気づいた。気づいたことを、そのまま伝えるように、とご当主が言い置いたそうだ。
私は膝の上で指を組んだ。
古い側の家が一つ動いた。古い側は動かないうちは数えているだけだ。数え終えた家から、順に動く。
この家が動いたことには、票の数以上の意味があった。第一読会で当家に反対を言ったのは新参の側で、賛成を先に決めたのが古い側になる。並びが逆になれば、読会で作られた形が崩れる。四十七家のうち、まだどちらでもない家は、崩れた形の方を見る。
「二つ目は」
「ファルク・エーデン殿からの、お伝えでございます」
ベルナーが膝の上の書面を初めて開いた。
「先方は、いま王都においででございます。港の宿ではなく、外交府の客間に。三日ほど滞在なさいます」
「お会いできますか」
「明日の午前に、お時間をお取りになっております。ローゼンベルク様がお訪ねになることを、既に、ご想定でいらっしゃいます」
「想定されておりましたか」
「先方は、いつも、そうでいらっしゃいます」
翌朝、外交府の客間へ上がった。三ヶ月のうちの三十九日目。あと五十一日ある。
ファルク・エーデンは、窓を背にして座っていた。この方は、いつも窓を背にする。顔が影になる位置を選ぶ人ではなく、外の光の変化が見える位置を選ぶ人だ、と父が言っていた。
「ローゼンベルク嬢」
「エーデン様。お時間を頂戴いたします」
「三十分でございます。それ以上お取りしますと、当方の滞在の意味を、外から数えられますので」
「では、二つだけ伺います」
私は封筒を机に置いた。グルゼマン伯の書面の、二枚目の写しだ。条件が三つ書いてある紙だった。
「一つ目。この三つの条件は、コーデルの商業評議会の議事に、いつ、かかりましたか」
ファルクが写しを見た。見て、すぐに顔を上げた。
「かかっておりません」
「かかっておりませんか」
「評議会の議事録に、この三つはございません。副議長のご私信として、王国側へ出されたものでございます」
「評議会のご意思ではない、ということでございますね」
「一つ目と二つ目は、評議会の誰もが望むところでございます。ですから、いずれ議事にかかります。ただ、いまはかかっておりません」
「三つ目は」
ファルクが三つ目の行を指で軽く押さえた。
「三つ目は、評議会では、通りません」
「なぜでございますか」
「国境の通行の書面を、王都で出せるようにする。それは、コーデルの側から見ますと、王国の王都に、こちらの荷の通り道を握らせる、ということになります。評議会の商人は、それを望みません」
「望まないものを、副議長が、お書きになった」
「お書きになりました」
私は写しを裏返した。
二つ目まではコーデルの利で、三つ目だけがコーデルの利にもならない。王国の辺境の利にもならない。誰の利にもならない条件を、わざわざ書いて寄越す人はいない。
「エーデン様。三つ目は、どなたの利になりますか」
「関の書面が、二つの場所から出るようになれば——どちらから出た書面かで、荷を選べる者が、得をいたします」
「選べる者」
「両方に、話が通る者でございます」
窓の外で外交府の中庭の噴水の音が変わった。水量を落としたのだろう。
「エーデン様。もう一つ、伺います」
「二つ目でございますね」
「グルゼマン伯のご母堂は、ヘルガ様と仰せになります」
ファルクが、はじめて、わずかに姿勢を変えた。
「よくご存じでいらっしゃる」
「弁明の七日で、当家が伺いました。ヘルガ様には、弟君がおいでです」
「クルト殿でございますね」
「はい」
「ローゼンベルク嬢。当方の王室は、その血筋のお話を、書面にしておりません」
「存じております。書面にいたしますと、副議長のお立場が、私的なご事情でお動きになっている、と読まれます」
「その通りでございます」
「私は、書面にしていただきたく、参ったのではございません」
「では、何を」
「順番を、伺いに参りました」
ファルクが少し首を傾けた。
「順番」
「三つ目の条件を、副議長にお勧めしたのは、どちらでございましょうか。ご自分でお考えになったのか、勧められてお書きになったのか」
「それは、当方の王室も、確かめられません」
「確かめられないことは、承知しております。ただ、一つだけ、確かめられることがございます」
私は記録院の写しを机に出した。この一月の一通。委託先の欄に、役の名の無い名前が一つ書いてある。
ファルクが読んだ。読んで、しばらく黙った。
「王国の書面でございますね」
「王国の貴族院に出された書面でございます。受付は先月の二十七日」
「……この方が、王国側の書面に、名前をお出しになっている」
「出せます。役の名を書かない欄に、名前だけを書けば、どなたでも」
「当方では、できません。評議会の書面は、役の名が無ければ受け取りません」
「王国では、受け取ります」
ファルクが写しを机に戻した。
「ローゼンベルク嬢。当方が二年前から、貴国に安定を求めておりますのは、この形が理由でございます」
「この形、と申しますと」
「誰が書いたかわからない紙が、国境を越えて参ります。越えてきた紙に、こちらは判を押します。押しますと、こちらの責めになります」
「押さずに、お返しになれば」
「返せば、荷が止まります。荷が止まりますと、港の人足が、その日の分を食べられません。ですから、押します」
私は頷いた。
港で判を押す人の手元には、その紙を書いた人の名が無い。名が無い紙を、押さないという選択は、その日の食事を止めるという選択になる。止められないから押す。押した分だけ、責めが手元に積もる。積もった責めは、いつか、押した人の名前で表に出る。
二年前から、この方が「安定」という言葉を使い続けてきた意味が、いま、はじめて具体になった。安定というのは、荷が滞りなく動くことではない。押した人が、押したことで損をしない形のことだ。
安定を必要としている側、というのは、そういう意味だった。理念でも友好でもない。押さざるを得ない紙を、押せる紙に変えたい、というだけの話だ。
「エーデン様。貴族院の名簿に、六つ目の役ができましたら、王国の書面には、役の名が入ります」
「入りましたら、当方は、判を押す前に、辿れます」
「辿れましたら、いかがなさいますか」
「押します。押しても、こちらの責めにならない紙になりますので」
「では、お願いがございます」
「伺います」
「六つ目の役ができた場合に、コーデルの商業評議会が、王国の書面をどう扱うか。それを、評議会のお名前で、一枚、お書きいただけますか」
ファルクが、はじめて、はっきりと私の顔を見た。
「貴国の議事に、当方の書面をお使いになる」
「使います」
「当方が口を出した、と読まれますが」
「読まれます。ですから、賛成とも反対ともお書きにならないでくださいませ。六つ目の役ができた場合に、こちらはこう扱う、という事実だけをお書きくださいませ」
「事実だけ」
「四十七家のうち、外の国と商いをしておられる家は、十一家でございます。その十一家は、自分の荷が港で止まるかどうかを、その一枚で読みます」
ファルクが窓の外を見た。噴水の音が、また少し変わっていた。
「三十分を、五分過ぎております」
「失礼いたしました」
「いえ。五分の分だけ、申し上げます」
ファルクが立ち上がった。
「その一枚は、評議会の議事にかけます。かければ、副議長も、その場におられます」
私は立ち上がって、礼をした。
副議長がその場にいる議事に、六つ目の役の話を出す。出せば、あの方は賛同の私信を書いた立場で、そこに座ることになる。
私が出した第一稿より先に賛同なさった方が、いちばん先に、賛同の理由を人前で説明することになる。
「エーデン様」
「はい」
「ありがとうございます」
「礼には及びません。当方は、安定が欲しいだけでございます」
外交府を出ると、風が変わっていた。北から来ている。関の方から来る風だ。
条件の三つ目は、コーデルの評議会にかかっておりませんでした。誰の利にもならない条件を、わざわざお書きになる方はおられません。
六つ目の役ができた場合の扱いを、評議会のお名前で一枚。副議長は、その議事の場においでになります。
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