第七十六話 「四階の、二十年」
三十六日目、王宮の西棟の四階に上がった。
三階はこの十年の書面が入っている。四階は、その前の二十年だ。階段を一つ上がるだけで、紙の匂いが変わった。三階の紙はまだ湿り気を持っている。四階の紙は、乾いて、少し甘い。
ルーカス・ハルトが、四階の入口で待っていた。
「ローゼンベルク様。北の鉱山の中継について、二十年分、出しております」
「お手数をおかけいたしました」
「手数ではございません。半年、この階を、どう並べ直すかだけを考えておりましたので。並べ直したものを、はじめて誰かにお使いいただけます」
この方は記録官長になって半年になる。就任の日に、書棚の前で三十分、動かなかったと聞いた。
机の上に束が三つ置かれていた。
一つ目の束が、いちばん古い。
二十年前の秋。北の鉱山の中継について、当家への申し入れが二度。差出は、グルゼマン家の名義。ただし、書面の末尾に扱いの家として、フォン・ベルクの家名が添えてある。
祖父は、二度で止めた。三度目は無い。
私はその二枚を、しばらく見ていた。
二十年前の紙は、字がまだ濃い。当時の書記が使った墨は、いまのものより粒が粗いのだと、ルーカスが前に教えてくれた。粗い墨は、乾くのが遅く、消えるのも遅い。急いで書かれた行ほど、二十年たっても、はっきり残る。
二通のうち、二通目の方が、字が急いでいた。一度断られた者が、間を置かずに書いた字だ。祖父はその急いだ字を読んで、三通目を待たずに終わりにした。
紙束の中で読んだ時、これは祖父の代で終わった話だと思った。終わった話として、額の裏の紙に戻した。
「二つ目の束は、十年前でございます」
ルーカスが束を開いた。
十年前の冬。北の鉱山の中継の扱いが、マレンドルフ侯爵家へ移っている。移管の書面は三通。三通とも署名の欄に役の名が無い。
「お名前だけでございますね」
「はい。この形が、当時から続いております」
「移した側は」
「当時の中継の管理をしていた商会でございます。商会は五年前に畳まれております」
「畳まれた商会の書面は、どこへ」
「どこへも参りません。畳まれますと、その商会が出した書面の責めを、誰も負わなくなります。書いた者の名が残っておりませんので、辿る先がございません」
私は三通を並べた。
十年前の冬。祖父が亡くなった年で、先代辺境伯が亡くなった年だ。目録の、丸の付いていない二行と同じ冬だった。
人が二人いなくなった冬に、紙の方も、辿れない形へ移っている。
「三つ目の束は」
「この一月でございます」
ルーカスがいちばん薄い束を開いた。
一通だけだった。
北の鉱山の中継について、管理の委託。委託先の欄に名前が一つ書いてある。
役の名は、無い。
クルト・フォン・ベルク。
私は、その行を三度読んだ。
「ルーカス様」
「はい」
「この方は、コーデルの方でございます」
「そのように伺っております」
「王国の貴族院に出される書面に、コーデルのお方のお名前が、載っております」
「載ります」
「載ってよろしいのですか」
「よろしいかどうかを、決める規則がございません」
ルーカスが机の端の書棚を手で示した。
「委託先は、家の役の名で書くものと、書式に定められております。ただし、役の名が無い場合の扱いは、どこにも書かれておりません。書かれていない場合、書記局は、書いてあるものを、そのまま受け取ります」
「名前だけを書けば、誰でも書ける」
「誰でも書けます。当家の者でなくとも、王国の者でなくとも」
私は窓の方を見た。西棟の窓からは、貴族院の屋根が見える。
名簿に六つ目の役ができれば、書いた者は名簿に載った役の名で書くことになる。役の名で書くということは、その役に誰が就いているかが、名簿で辿れるということだ。
辿れるようになると、辿られて困る人が出る。
困る人の中に、この一通の名前があった。
「ルーカス様。この形で書面を出しておられる方は、ほかにも」
「二年分を数えました時に、役の名が無くお名前だけのものが、三十八通ございました。うち二十九通が当家——失礼、ローゼンベルク家でございます」
「残りの九通は、四家」
「はい。ただし、その四家の九通のうち、七通が、マレンドルフ侯爵家でございます」
「四階の二十年では、いかがでしょうか」
ルーカスが書棚の下段から、細長い帳面を出した。
「同じ数え方をいたしました。二十年で、二百十一通。うち百四十が、マレンドルフ侯爵家、または、その前に中継を握っていた商会でございます」
「二十年、同じやり方でございますね」
「同じでございます。当家が二年前から数え始めましたのは、三階の分だけでございました。四階は、誰も数えておりませんでした」
「なぜ、数えておられなかったのですか」
「四階の書面は、もう、誰も責めを問えないからでございます。責めを問えない紙を数えても、書面の仕事にはなりません」
「ただ、数えますと」
「数えますと、二十年、同じ場所に、同じやり方が置かれていたことが、わかります」
私は帳面を閉じた。
制度案が通れば、この二十年分は変わらない。過ぎた紙は過ぎた紙のままだ。変わるのは明日から先の紙だけになる。
それでも、明日から先の紙が変われば、二十年、同じやり方で書いてきた人は、明日から書けなくなる。
「ルーカス様」
「はい」
「この一月の一通は、いつ、書記局に届きましたか」
ルーカスが書面の裏の受付印を見た。
「先月の、二十七日でございます」
私は指を止めた。
今期の議事日程が書記局で組まれるのは、先月の末だ。名簿改定に関する採決日という一行は、その時に日程へ入っている。
同じ週だった。
「ルーカス様。この受付印の日と、書記局が今期の日程を組んだ日は」
「同じ週でございます。書記局の日程を組む部屋と、案件の受付は、廊下を挟んで向かい合わせでございます」
「向かい合わせ」
「はい。書面を出しに来た方が、日程の部屋の前を通ります」
私は帳面をルーカスに返した。
通っただけでは、何もならない。ただ、通った人がいて、その週に日程へ一行入っていて、その一行が十一日後に海を渡っている。
偶然と言うには、線が三本になっていた。
「ルーカス様。この三つの束の写しを、いただけますか」
「お作りいたします。ただし、写しをお作りしたことも、記録に残ります」
「残して結構でございます」
「残しますと、写しをご覧になった方のお名前が、四階の帳面に載ります」
「載せてくださいませ」
ルーカスが少しだけ手を止めた。
「載せて、よろしいのですか」
「私が四階の二十年を読んだ、という事実は、隠すより、残しておいた方が働きます」
「働く、と申しますと」
「相手が、私が読んだことを、いずれ知ります。知った時に、次の一手を急ぎます。急いだ手は、たいてい、こちらが待っている場所に落ちます」
ルーカスが写しの手配に立った。
私は四階の窓際でしばらく待った。窓の下を書記局の使いが二人、書面の箱を抱えて渡っていく。
二十年、誰も数えなかった階の紙が、いま、机の上に三つの束になって並んでいる。
数えられなかったのは、責めを問えないからだ。責めを問えない紙は、書いた者にとって、いちばん安全な紙だった。
安全な場所を二十年使ってきた人は、その場所が閉じることを、誰よりも早く察する。
察したから、先月の末に動いた。
三ヶ月のうちの三十六日目。あと五十四日ある。
動いた形は二十年前の秋と同じだった。二度で止められた家が二十年かけて、止められない場所に回り込んでいる。回り込んだ先が、名簿の外だった。名簿の外は誰の目にも入らない代わりに、閉じられる時も、一枚の紙で閉じられる。
閉じた時にその人がどこへ回り込むかは、まだ、どの紙にも書いていない。
役の名の無い書面は、二十年で二百十一通。うち百四十が、同じ場所の同じやり方でございました。
この一月の一通に、コーデルのお方のお名前がございます。受付の日は、議事日程が組まれた週と同じでございました。
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