第七十五話 「先に、書いておく」
答弁の書面を書き始めたのは、三十二日目の朝だった。
書き出しを、三度、書き直した。
一度目は、ご指摘の点について、から始めた。二度目は、当家の事情について、から始めた。どちらも言い訳の形になった。言い訳の形になった書面は、読む人が二行目から疑い始める。
三度目に、こう書いた。
当家の家督代行を務める者は、本年ヴァルナー辺境伯家へ嫁ぎます。婚儀は本日より五十八日後。以後、年のうち九ヶ月を王都に三ヶ月を辺境に過ごす取り決めでございます。
自分の婚儀の日取りから書いた。
隠しているものを暴くのが相手の手であれば、暴くものを先に無くしておけばよい。先に書いてしまえば、次に同じことを言う人は、当家が既に書いたことを繰り返すだけの人になる。
書いてから、リゼットを呼んだ。
「これを、書記局へ出します。四十七家に配られる書面でございます」
リゼットが一枚目を読んで、二行目のところでほんのわずかに顔を上げた。
「お日取りまで、お書きになりますか」
「書きます」
「よろしいのでございますか。……お輿入れの日は、当家とヴァルナー家の中だけの——」
「中だけのものでした。昨日、外から言われました。言われたものを、隠したままにしておきますと、次は、もっと近いところを言われます」
「近いところ、と申しますと」
「ヴァルナー家のことでございます」
リゼットが書面を机に置いた。
「先に出しておしまいになる、ということでございますね」
「出します。ただし、出す前に、ヴァルナー家のご同意をいただきます」
書き直した三度分の紙を、そのまま机の脇に残しておいた。
言い訳の形になった書面が、どこで言い訳になったのかを、後で読み返すためだ。一度目は二行目で、二度目は五行目だった。どちらも当家の事情を先に置いた行から崩れている。事情を先に置くと、その先に書いたものが全部、事情の説明になる。
三度目は、事情を一つも書かなかった。日取りと、取り決めと、条文の追加だけを書いた。読んだ人が当家の事情を想像する余地は残るが、想像は書面には残らない。
カイへの手紙は、二枚だけにした。
当家の答弁に婚儀の日取りと、年九ヶ月と三ヶ月の取り決めを書くこと。書けば辺境伯家の内側の取り決めが、四十七家に配られること。それでよろしいか。
返事は三日後に来た。同じ二枚だった。
結構です。当家は隠しておりません。隠していないものを隠しているように扱われる方が、当家には困ります。
その下に一行だけ続きがあった。
ただし、三ヶ月の方を九ヶ月より先に書いてくださいませんか。当家としては、そちらが先です。
私はその一行を、二度読んだ。
書面の順序を入れ替えた。年のうち三ヶ月を辺境に、九ヶ月を王都に。
中身は何も変わらない。変わらないものの順序が変わると、読んだ人の頭に残る家が変わる。
答弁の後半に条文の追加を三つ書いた。
一つ。六つ目の役に就く者はその家の書面を作る場所に、年のうち九ヶ月以上在ること。
二つ。六つ目の役に就く者は、他家の当主、家督、家督代理を兼ねないこと。婚姻はこの役を失う理由としない。
三つ。指名の書面にはその者に加えて、次に就く者を一名、併せて記すこと。
一つ目と二つ目は、昨日ヴァイス子爵に突かれた場所を、そのまま埋めたものだ。二つの家に同じ人が跨がるのは困る、というご指摘に対して、跨がりを禁じる条文で答えた。ご指摘の通りに書けば、ご指摘は、条文になる。条文になったご指摘は指摘した人のものになる。
三つ目は、突かれていない場所だ。
私は三つ目を書きながら、しばらく筆を止めた。
次に就く者を指名の書面に併せて記す。書けば、六つ目の役はいつでも代われる役になる。
その役に私が就いているあいだも、私の隣の行には別の名前が書かれている。
便利なものは、期限が来る。期限が来た時に、家が止まらないようにしておく、というのがこの一行の意味だった。
意味はそれだけだ。それだけのことを書くのに、筆が止まった。
止まった理由は、わかっている。
私は、この十年、当家の書面を止めないためだけに動いてきた。止めないでいられたのは、私が座っていたからだ。座っている者が要らなくなる形を、自分で書いている。
書いた。
書いてから、白い紙の二枚目——六つ目の役があって助かる方のお名前——を見た。
一行目、ルーカス・ハルト。二行目、ハイデン子爵家。
その下に三行目を書いた。
当家。私が居なくなった後の、当家。
昼前に、父の書斎へ上がった。書記局へ出す前に、一度だけ見せておくことにしていた。手を出さない、と決めた人に、決めた通りにさせるためには、こちらから見せておく方がよい。
父は三枚を順に読んで、三つ目の条文のところで、指を止めた。
「アリシア」
「はい」
「この一行は、突かれた場所ではないな」
「ございません」
「なぜ書いた」
「六つ目の役が、一人の名前で回っておりますと、その一人が居なくなった日に、家が止まります。止まる仕組みは、制度とは申しません」
父が紙の角を揃えた。
「お前が要らなくなる一行だ」
「はい」
「書いてから、しばらく止まったな」
私は父の顔を見た。
「なぜ、おわかりになりますか」
「筆の入りが、他の二行より濃い。止まった筆は、置いた場所が濃くなる」
父が三枚を私の方へ戻した。
「祖父の書面にも、同じ濃さの行が、二つある」
「どちらでございますか」
「教えん。お前が読んでいる紙束の中だ。自分で見つけなさい」
「探します」
「探すのは、いま急がなくてよい。書記局へ、先に出しなさい」
夕方、書記局へ出した。判が押されて、写しは明後日、四十七家へ配られる。
屋敷に戻ると、リゼットが玄関で待っていた。
「お嬢様。ヴァイス子爵家の、この一月のお動きでございます」
「お聞きします」
「ご当主様は、この一月に、王都の外へ二度お出ましでございます。一度目は、西のケラー男爵家。二度目は——北でございます」
「北のどちら」
「鉱山の中継の宿場でございます。三日おいででした」
私は玄関の白い薔薇の脇で足を止めた。
北の鉱山の中継。祖父の紙束の、いちばん古い一行にあった場所だ。二十年前の秋、フォン・ベルクの家名で、二度、申し入れがあった場所。いまは、マレンドルフ侯爵家が握っている。議席は三年停止のまま、家業だけが残っている場所だ。
「リゼット」
「はい」
「宿場で、どなたとお会いになりましたか」
「そこまでは、まだ。宿の帳面は、当家の脈では届きません。あの宿場は、鉱山の家の中で回っております」
「では、届く脈を探します」
「一つ、ございます」
「どちら」
「記録院でございます。宿場の帳面は届きませんが、鉱山の中継の書面は、貴族院に出ております。出ている書面は、記録院の四階に、二十年分ございます」
私は薔薇から目を上げた。
四階はこの十年より前の二十年だ。
「明日、記録院へ参ります」
「ルーカス様に、お先に、お伺いを立てておきます」
「お願いいたします」
三ヶ月のうちの三十二日目。あと五十八日ある。
書斎に戻って、白い紙の一枚目を見た。
左の欄、利害。ヴァイス子爵。
その名前の下に線を一本引いて、書き足した。
北の鉱山の中継。二十年前の欄と、同じ場所。
二十年前の欄にあった家名は、フォン・ベルクだった。あの一行を読んだのは、十二日目の夜だ。読んだ時、私はそれを祖父の代で終わった話として紙束に戻した。終わった話が二十日たって、新参のご当主の旅の行き先として戻ってきている。
私が突かれた場所は私が空けておいた場所だった。埋めるのは、今日で済んだ。
ただ、突いてきた人がなぜその場所を知っていたかは、今日では済まない。
婚儀の日取りは、当家から先に書いて出しました。隠しているものを暴くのが相手の手であれば、暴くものを無くしておけば済みます。
条文の三つ目は、突かれていない場所に書きました。次に就く者を、併せて記すこと。私が居なくなる形の一行でございます。
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