第七十四話 「嫁ぐ者の、役」
三十一日目の午前、貴族院で第一稿の第一読会が開かれた。
読会というのは案の中身を議場で一度読み上げて、質疑を受けるだけの日だ。採決はしない。書式の上では、ただの手続きの日でしかない。
ただし、この日に付いた傷は、採決の日まで残る。
私は傍聴席の三列目にいた。父は議席にいる。父は今日、この案について一言も話さない。話さないことを、先月、自分で決めている。
傍聴席から議場を見下ろすと、四十七の席は、弓なりに並んでいる。議長席から見て、右へ行くほど古い家、左へ行くほど新しい家だ。並び順は爵位でも領地の広さでもなく、貴族院に席を置いた年の順だと、はじめて上がった日に父から教わった。
私はこの十年、この席から議場を見てきた。父が読み上げる書面を、私が前の晩に書いていた。書いた者は読み上げられているあいだ、手すりの上で指を動かさないようにしているだけだ。
今日も、同じ場所にいる。違うのは読み上げられている書面が、当家の利のためではないことだった。
書記官が案の表題を読み上げた。
役職名簿の改定に関する案、第一稿。提出、ローゼンベルク家。
表題のあとに、書記官が一言添えた。
「なお、本案は、第一条の役の名の欄が、空白のまま提出されております」
議場が動いた。四十七の席のうち、十いくつかで書面をめくる音が同時に鳴った。
「書式の不備ではないか」
声を上げたのは南の伯爵家のご当主だった。
「提出の家より、説明を求めます」
議長がそう言って、当家の議席の方を見た。
父は立たなかった。
代わりに当家の書記官が立って、一枚の紙を読み上げた。
役の名は議場でお決めいただきたく、空白のまま提出いたしました。名を先に書きますと、その名は提出した家の付けた名になります。以上。
二十秒ほどで終わった。父は一度も口を開いていない。
議場が次にどう動くかを、私は傍聴席から見ていた。
書面をめくる音が止んで、それから、いくつかの席で隣同士が短く言葉を交わし始めた。空白の欄というのは、埋めたくなるものだ。埋めたくなった時点で、その人は案の中に半分足を入れている。
議長が質疑に入ると告げた。
最初に立ったのは、王都のヴァイス子爵だった。空いた四つの議席の一つに座っている、新参の家のご当主だ。年は三十代の半ばに見えた。声はよく通る。
「本案について、二点、伺います」
「どうぞ」
「一点目。六つ目の役に就く者は、誰が決めますか」
当家の書記官が答えた。当主か家督が書面で指名し、貴族院へ届け出る。届けは毎年出し直す。
「承りました。二点目でございます」
ヴァイス子爵が手元の紙を一度だけ見た。
「本案を提出されたローゼンベルク家には、いま、名簿に無い役で書面をお作りになっているお方が、おられると伺っております」
議場の空気が、わずかに変わった。
「そのお方は、当家の調べでは、この三ヶ月のうちに、ヴァルナー辺境伯家へお輿入れになる」
私は傍聴席の手すりに置いた手を、動かさなかった。
ヴァイス子爵は、こちらを見なかった。傍聴席を見ずに、議長の方だけを見て話している。作法としては正しい。正しい作法で、私の話をしていた。
「お伺いいたします。六つ目の役に就いた者が、他家へ嫁いだ場合、その役は、どうなりますか」
当家の書記官が答えなかった。
答えられなかったのではない。答えが第一稿に書かれていないからだ。
「第一稿には、記載がございません」
書記官が正直にそう言った。
「記載が無い、ということは、嫁いだ後も、その役に就き続ける、ということでございますか」
「第一稿には、記載がございません」
「同じお答えでございますね」
「同じでございます」
ヴァイス子爵が、議長へ向き直った。
「議長。私は、この案そのものに反対しているのではございません。ただ、この案には、書かれていない場所がございます。書かれていない場所は、提出された家に、いちばん都合よく使われます」
議場の何席かで、頷きが動いた。
「他家へ嫁いだ者が、実家の書面に署名を続けられる。それを名簿が認める。——それは、六つ目の役ではございません。二つの家に、同じ人が跨がる、ということでございます」
声が高くなっていない。高くならないから、余計に通った。
「四十七家のうち、どれだけの家が、それをお望みでしょうか。当家は、望みません」
ヴァイス子爵が席に着いた。
私は議場を左から右へ、ゆっくり見た。
新しい家の側では三席か四席が、はっきり頷いていた。古い家の側は、動かない。動かないのは賛成でも反対でもなく、まだ数えている顔だ。あの側の家は当家より長く貴族院にいる。長くいる家は新しい役ができた時に、誰が最初に得をするかを、まず数える。
空いた四つの席のうち、ハイデン子爵だけが、書面を見たまま顔を上げなかった。
議長が当家に答弁を求めるかと聞いた。当家の書記官が、後日、書面にてお答えいたします、と答えた。
読会は、それで終わった。
傍聴席を出て、廊下の窓の下でしばらく立っていた。
突かれた場所は私が空けておいた場所だった。空けたのは書けば自分の話になるからだ。書かなければ突かれる、ということも、書記局へ出す前に、わかっていた。
わかっていたことが、わかっていた通りに起きた。
起きた時に、どちらが得かを、そこで初めて数える。
ヴァイス子爵が言ったことは、正しかった。二つの家に同じ人が跨がる形を、四十七家は望まない。私が逆の側の議席にいたら、同じことを言う。
ただ、あの方は、一つだけ、余計なことを言っていた。
当家の調べでは、と言った。
婚儀の日取りを知っている者は、当家に三人、ヴァルナー家に三人。届けは、まだ出していない。今月の初めに一日前へ動かしたことは、両家の中だけの話だ。
ヴァイス子爵は私が嫁ぐことを知っていた。そこまでは、噂で足りる。ただ、この三ヶ月のうちに、と言った。
期日を月の幅で言い当てていた。
廊下の先から、リゼットが来た。
「お嬢様」
「ヴァイス子爵家のことを、お調べいただけますか」
「本日中に」
「ご当主のお人柄ではなく、この一月で、どなたとお会いになっていたかを」
「かしこまりました」
リゼットが下がりかけて、止まった。
「お嬢様。今日、あの方は、書いてない場所を突いてこられました」
「突かれました」
「書いてない場所があることを、ご存じでいらしたのは」
「下書きをご覧になった方でございますね」
「ハイデン子爵様は」
「あの方がご覧になった下書きには、居住も縁組も、一行もございません。第一稿にも、ございません。無いものは、読んでも見つかりません」
「では、なぜ」
「無いことに気づくには、二つの道がございます。読んで気づく道と——同じ案を、先に、ご自分で考えたことがある道でございます」
リゼットが少しだけ黙った。
「後者でございますと」
「後者でございますと、ヴァイス子爵は、六つ目の役を、以前、ご自分でお考えになったことがある方でございます」
三ヶ月のうちの三十一日目。あと五十九日ある。
屋敷に戻って、白い紙を一枚目から並べた。
反対なさる方のお名前。その右の欄——作法で反対する方——に、ヴァイス子爵の名は、まだ書かなかった。
あの方の言い分は、作法ではなかった。書いてない場所を突く人は、条文を読む人だ。条文を読む人は、条文で動く。
私は左の欄にヴァイス子爵と書いた。
利害の欄だ。
利害の欄に入った方は、その方の取り分が増える形に書き直せば、片が付く。取り分が何であるかは、まだわからない。
ただ、書き直す場所は、もう決まっていた。
私が空けておいた場所だ。空けておいたことに気づいた方が、四十七家のうちに、少なくともお一人おられる。
第一稿の書いていない場所を、新参のご当主に突かれました。書けば自分の話になる、と思って空けた場所でございます。
あの方は、私が嫁ぐ月まで言い当てておられました。作法ではなく、条文で反対なさる方は、条文で動きます。
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