第七十三話 「関の前に、立つ者」
王都を出て三日目の昼に、ヴァルナー領の町に入った。
町の入口で、副官のヴェルナー殿が迎えていた。前に来た時よりも人が多い。市の立つ日だそうだ。荷車が道の両側に並び、その脇を人が抜けていく。警備の者は道の角に一人ずつ立っているだけで、こちらへ寄ってはこなかった。
「カイ様は、北の関でございます」
「本日は、関に」
「市の日は、荷が集まりますので。夕までには、お戻りになります」
「では、私も関へ参ります」
ヴェルナー殿がわずかに目を上げた。
「道中、三日でいらしたばかりでございますが」
「三日座っておりましたので、そろそろ立ちたく存じます」
馬を借りて、北の道に入った。町から関までは、馬で二刻ほどだった。道は登りが続き、途中から山の影に入って、風の温度が一段下がった。
関は山あいの狭くなった場所に建っていた。石を積んだ低い壁と、木の門と、その脇の小さな建物。想像していたよりも、ずっと小さい。
門の手前に、荷車が七台、列を作っていた。
カイは四台目の脇に立っていた。革の上着で、書面を持たずに、荷の上の覆いをめくって中を見ている。私が馬を降りると、こちらを見て、覆いを戻してから歩いてきた。
「アリシア」
「お仕事の最中に、失礼いたします」
「三日目の昼に着いて、その足でここまで来られましたか」
「二刻でございましたので」
「私の副官が、たいそう困った顔をしていたでしょう」
「困った顔は、なさいませんでした。困った言い方を、なさいました」
カイがわずかに口元を動かした。
「あと三台で終わります。ご覧になりますか」
「拝見いたします」
五台目は麻の袋を積んでいた。カイは口を開けて中に手を入れ、袋の底の方を握って、それから通行の書面に目を落とした。何も言わずに、門番へ頷いた。
六台目で、手が止まった。
荷は同じ麻の袋だった。書面も同じ書式で、同じ判が押してある。カイは袋の底を握って、それから御者に一つだけ聞いた。
「どちらの道から」
「東の峠から参りました」
「東の峠は、先週の雨で、崩れております」
御者が黙った。
「迂回されましたか」
「……北の、旧道を、通りました」
「旧道は、荷車が通れる幅がございません。荷を分けて、担いで越えられましたね」
御者が頷いた。
カイは門番を呼んで、この荷は明日の朝まで待たせる、と伝えた。それから御者に、待つあいだの宿の場所を教えた。声の高さは、通した五台目の時と何も変わらなかった。
列が一台ずつ前へ動いた。動くたびに、待っている御者たちが荷の位置を直す。直す手つきに、慣れた者と慣れない者の差が出た。慣れた者は、荷の覆いの端を、門から見える側だけ先に整える。見られる場所を知っている、ということだ。
王都の議場では、書面が先に来て、人が後から来る。ここでは、人と荷が先に来て、書面は荷の脇にぶら下がっている。同じ書式の紙が、置かれる場所で、これほど軽くなる。
七台目を通し終えると、門の脇に日が傾いていた。
六台目を止めた理由を、カイは帰りの道で、聞かれる前に話した。
書面には落ち度が一つも無かった。書式も判も正しく、どこを読んでも通る紙だった。止めたのは袋の底だ。底が湿っていた。
北の旧道は沢を二度渡る。渡った荷は下から湿る。旧道を荷を分けて担いで越える者は、たいてい急いでいる。急いでいる荷には理由があり、理由のある荷には後ろに人が付く。誰が付いているかを確かめてから通しても、遅くはない。
私は関の壁に手を置いた。石は昼の熱をまだ持っていた。
この見分けは、どこにも書かれていない。書式にも、判の形にも、通行の書面のどの欄にもない。二百年、この門の前に立ち続けた家の中だけで、受け渡されてきたものだ。
関の脇の小屋で、灯りを入れてもらった。私は鞄から便箋を三枚出して、机に並べた。
「グルゼマン伯からの書面でございます。昨日でなく、一昨日の朝に、父と読みました」
カイは三枚を順に読んだ。読む速さが、一枚目と二枚目で変わらなかった。三枚目の日付のところで、一度だけ止まった。
「十一日前ですね」
「十一日前でございます」
「アリシアが書記局にお出しになる前だ」
「前でございます」
「では、条件の三つ目は、この方が、ご自分でお考えになったものではない」
私は顔を上げた。
「なぜ、そうお思いになりますか」
「一つ目と二つ目は、港の話です。港で困っている方が、港の困りごとから書ける中身です。三つ目だけ、関の話になっております。港の方は、関の書面が誰の署名で出ているかを、普通、ご存じない」
「ご存じの方が、お教えになった」
「教えた方がいる、と私は読みます」
カイが二枚目を机の上で軽く指で押さえた。
「アリシア。三つ目が通りますと、関は、どうなりますか」
「王都で、通行の紙が出せるようになります」
「その紙は、ここへ届きます。届いた紙には、袋の底が湿っていたかどうかは、書いてございません」
「書けません」
「書けないものを、書いた紙が、書いてある紙より強くなります」
私は関の外の列の跡を見た。荷車の輪の跡が、土に七本残っていた。
断ればよい、と考えるのは簡単だった。ただ、断ればグルゼマン伯の一つ目と二つ目も消える。消えれば、四十七家の票がいくつか動く。
「カイ」
「はい」
「三つ目を、断らずに、関を手放さない書き方が、一つだけございます」
「伺います」
「六つ目の役を、辺境伯家でも、お使いくださいませ」
カイが、便箋から目を上げた。
「当家が、ですか」
「はい。関で署名なさる方——ヴェルナー殿を、名簿の六つ目の役に載せます。載れば、ヴェルナー殿の署名は、辺境伯ご当主の署名と同じ扱いになります」
「コーデル側の条件は」
「六つ目の役に就いた者の署名を、当主の署名と同じに扱う、でございます。関に立つ方が六つ目の役に就いておられれば——条件は、それで、満たされます」
カイがしばらく黙った。
「王都の誰かが署名する必要が、無くなりますね」
「無くなります。三つ目は、書面の上では通っております。ただし、署名するのは、関の前に立っている方だけになります」
「条件を、そのまま受けて、中身を、こちらで決める」
「受けた方が、強うございます。断りますと、次はもっと隠して参ります」
カイが便箋を揃えて、封筒に戻した。
「一つだけ、申し上げてよろしいですか」
「どうぞ」
「当家の副官を、王国の貴族院の名簿に載せる、というのは——辺境伯家が、王都の名簿の中に入る、ということでもあります」
「入ります」
「二百年、当家は、名簿の外におりました」
私は頷いた。
外にいることは、守りでもあった。名簿の外にある家は、名簿を書き換えられても揺れない。ただ、外にいる家は、書き換える側の話に、呼ばれない。
「カイ。お決めになるのは、辺境伯家でございます。私は、こういう形もある、と申し上げに参りました」
「決めるのは私です。ただ、決める前に、一つ、確かめたいことがございます」
「なんでしょう」
「アリシアは、この案を、当家のためにお考えになりましたか。それとも、制度案を通すためにお考えになりましたか」
私はすぐには答えなかった。
答えは両方だった。両方であることを隠すと、後で隠したところから壊れる。
「両方でございます。関を手放さない形を探しておりましたら、制度案の通り道も、同じ形の中にございました。分けて申し上げることは、できません」
「結構です」
「よろしいのですか」
「片方だけだと仰る方の方が、私は、信じません」
夜、駐屯所で、目録の写しを机に出した。
額の裏にあった十九行のうち、丸の付いていない二行。北の湧水の水利は、次の代の当主同士で口頭にて。先代辺境伯より預かりの品、返却時期未定。
カイは一行目を長く見ていた。
「口頭にて、というのは、書面にしない、という意味ではございませんね」
「私も、そう読みました。書面にすると、両家の取り決めになります。口頭にすると、当主同士の間のものになります。次の代が引き継ぐかどうかを、次の代が決められる形でございます」
「では、その時に」
「その時に、いたしましょう」
「二行目は」
「当家の書庫には、それらしいものが、まだ見つかっておりません。父も、心当たりが無いと申しております」
「当家の記録にも、預けたという行がございません」
「片方にしか残っていない、ということでございますね」
カイが頷いた。
「片方にしか残っていないものは、たいてい、残した方に、理由があります」
翌朝、王都へ発った。
見送りに出たカイが、馬車の窓の脇で一度だけ止まった。
「次は、私が王都へ参ります。月に二度の、二度目です」
「お待ちしております」
「玄関の苗は、根が付きましたか」
「付きました。蕾が、二つに増えております」
三ヶ月のうちの二十六日目。あと六十四日ある。
馬車が山の影を出ると、風の温度が一段戻った。
関の見分けは、書面のどの欄にもございません。二百年、門の前に立った家の中だけで受け渡されてきたものでございます。
条件の三つ目は、断らずに受けます。ただし署名するのは、関の前に立っている方だけにいたします。
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