第七十九話 「渡す時期を、決める者」
四十五日目の夜、父に呼ばれた。
書斎の机の上に書類の束が一つだけ置いてあった。父の机がこれだけ空いているのを、私は見たことがない。
「座りなさい」
私は向かいに座った。
「家督を、お前に渡す」
父の言い方は相談ではなかった。決めたことを伝える言い方でもなかった。その中間のどちらにも寄れる言い方だった。
「いつ、でございますか」
「採決の前だ。届けは、来月の頭に出せる」
「ご理由を、伺ってもよろしいですか」
「読会で、当家の令嬢が名簿に無い役で書面を書いている、と議場で言われた」
「言われました」
「お前が家督になれば、その話は消える。家督は名簿にある役だ。名簿にある役で書けば、誰にも突かれん」
私は机の上の束を見た。家督の移譲に要る書面が、既に揃えてある。父は言い出す前に書式まで整えていた。
「父上。その形にいたしますと、当家は、六つ目の役を必要としなくなります」
「しなくなる」
「案を出した家が、案を必要としなくなります」
「必要としない家が出した案は、通らんか」
「通らないのではございません。通る理由が、なくなります」
父が指を組んだ。
「四十七家は、当家のために通すのではない。当家が困っているから通すのでもない。ただ——出した家が、自分だけ先に困らない形に移りましたら、残りの四十六家は、その案を、当家の後始末だと読みます」
「後始末を、他家が手伝う義理は無い、と」
「ございません」
父が黙った。
私は続けた。
「もう一つ、ございます」
「言いなさい」
「家督は、代替わりで、また一人に戻ります。私が家督になりまして、当家の書面が滞りなく回るようになりましたら——次の代で、また、同じことが起きます」
「起きるな」
「私の代で片が付いた、という形になりますと、いちばん困りますのは、次に同じ場所で詰まる方でございます」
父がはじめて目を上げた。
「困る者の顔が、見えているのか」
「見えません。見えませんので、条文にいたします」
窓の外で庭の木が一度だけ揺れた。
父はしばらく何も言わなかった。それから、机の束の上に手を置いた。
「アリシア。私が、なぜ、いま渡すと言ったか、わかるか」
「議場で突かれたからだ、と伺いました」
「それは、口実だ」
私は父の顔を見た。
「十年前、辺境からの手紙が、十二通、この家で止まった」
「……はい」
「止めたのは家令だ。私は、後で聞いた。聞いて、お前には言わなかった」
「存じております」
「言わなかったのは、お前が母を亡くして、祖父を亡くして、当家の書面を一人で回し始めた年だったからだ。私は、そう自分に言った」
父が束の角を揃えた。揃える手がいつもより遅かった。
「言い訳だ」
「父上」
「私は、渡すべきものを、渡す時期を、私の都合で決めた。十年前に一度、決めている」
私は膝の上で指を組み直した。
「今度も、私の都合で決めようとした。娘が議場で名指しされるのを、見ていたくなかった。それだけだ」
書斎が、しばらく、そのままになった。
父が机の上で手を組み直すのを、私は見ていた。
この人が言い訳だ、と自分で言うのを、私は二度目に聞いた。一度目は、弁明の七日の最後の日だった。あの時は、当家の外に向かって言った。今日は、机を挟んで、私一人に言っている。
十年前、私は十六だった。母が亡くなって二年、祖父が亡くなった年で当家の書面がいちばん散らかっていた年だ。あの年に、辺境から十二通の手紙が届いて、玄関の手前で止まった。止めた家令は、五年前に亡くなった。亡くなった人の判断は、もう誰も問えない。
父が知っていて言わなかった、という一段だけが残った。
残ったものを、父は十年、机の引き出しのどこかに置いていた。今夜、家督の書面の束と一緒に出してきた。出す理由が要る人だった、ということだ。
私は、その一段を責める気にならなかった。責める気にならないことの方が、たぶん、父には重い。
「父上。一つ、お見せしたいものがございます」
私は持ってきた紙束を机に出した。額の裏から出た、祖父の薄い紙だ。四枚目までは、既に父も読んでいる。
紙束は額の裏板と絵の間に折らずに重ねてあった。折らずに重ねる、というのはいつでも一枚ずつ抜けるように、ということだ。抜けるようにしておいて、最上の一枚に一枚だけを持ち出すな、と書いてある。
五枚目を机の上に置いた。
この紙を開いたのは、一昨日の夜だった。父が祖父の書面には他の行より濃い行が二つある、自分で見つけなさい、と言った日から、順に読み直していた。
五枚目は、二行しかない。
渡す時期は、渡す者が決めてはならない。
受け取る者が、受け取れる形になった日に、渡す。
字が他の紙より濃かった。
父が、その二行を長く見ていた。
「……これか」
「筆の入りが、他より濃うございました」
「濃いな」
「父上が仰せになった二つのうちの、一つ目かと存じます」
父が紙を持ち上げて、灯りに近づけた。
「祖父は、この二行を、誰に向けて書いたと思う」
「わかりません。ただ、この紙束は、二十年前の秋の一枚から始まっております。二十年前に、祖父が渡さずに終わらせたお話が、一つございます」
「北の鉱山の中継か」
「はい。二度で止めて、三度目を待たずに終わらせております。相手には、終わらせた理由を、お伝えになっておりません」
「伝えなかったな」
「伝えなかったものが、二十年たって、戻ってまいりました」
父が紙を机に戻した。
「渡す時期を、渡す者が決めた例だ」
「祖父ご自身の例かと存じます」
「自分でやったことを、自分で書き残したか」
「濃く書いてございます」
父が束の上に置いていた手を、ようやく外した。
「アリシア。家督の話は、取り下げる」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いではない」
「では、申し上げ直します。——採決の日までに、お渡しにならないでくださいませ」
「その先は」
「その先は、私が受け取れる形になった日に、お渡しくださいませ」
父がはじめてわずかに笑った。笑い方が祖父の書面の話をしている時の顔だった。
「受け取れる形、というのは、いつだ」
「六つ目の役が、名簿に載りました日でございます」
「載れば、お前は、その役に就ける」
「就きます。就いた上で、家督を頂戴いたしますと——当家は、家督と、六つ目の役の両方を、同じ者が持つことになります」
「兼ねられんな。お前が自分で書いた条文だ」
「兼ねられません。ですから、その日には、六つ目の役の方を、別の方にお渡しいたします」
父が動きを止めた。
「別の者に」
「はい」
「誰だ」
「まだ、決めておりません。ただ、指名の書面には、次に就く者を併せて記す、と条文に書いてございます。書いた者が、自分の次を書かないのは、通りません」
父がしばらく私を見て、それから、机の束を引き出しに戻した。
書斎を出て、廊下を歩いた。
廊下の途中で、玄関の方の灯りが見えた。白い薔薇と、名前のわからない小さな花と、その隣の若い苗。
苗は去年までこの家に無かったものだ。無かったものが、いま、当たり前の位置に置かれている。三年もすれば、誰も、いつからそこにあるかを言えなくなる。
制度というのは、たぶん、そういう形をしている。作った者の名前が消えて、置かれている場所だけが残る。名前が残っているうちは、まだ、その人の持ち物だ。
自分の次を書く、というのはこういうことかと思った。
私は十年、当家の書面を止めないために座ってきた。座り続けることが仕事だと思っていた。
仕事の中身が、いま、半分入れ替わっている。
座り続けることではなく、座らなくてよい日を用意することの方に。
三ヶ月のうちの四十五日目。あと四十五日ある。ちょうど、半分だった。
父が家督を渡すと仰せになりました。お受けいたしませんでした。案を出した家が、自分だけ先に困らない形に移りますと、残りの四十六家は、それを後始末と読みます。
父上が仰せになった濃い二行のうちの、一つ目でございました。二つ目は、まだ、どの紙にも見つかっておりません。
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